稽古の意味について再考してみる

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 稽古というのは、何か出来ないことを出来るように練習したり、
 人前で何か見せるためのものの完成度を高めたりと、
 どこか反復的であり、あくまでも本番のためのそれであると思っていました。

 ところが、ある踊り手の舞を見て、とても驚かされ少し考え方が変わりました。
 彼女の舞は、自身の肉体で何かを表現しようとしているようには見えませんでした。
 動く肉体よりも、一見なんのへんてつもないその場の空間を作りだし
 しかも、ひたすらその場を鎮めようとしているのです。
 見ているこちら側は、何を表現しているのかを別段くみ取る必要もなく
 ただ、神秘的でそして、すがすがしい風が空間を流れているのを感じたのです。

 僕は、興味を持ち彼女にどのように稽古をしているのかを尋ねました。

 彼女が、言うには
 例えば富士山の麓の雪原で、真夜中に、月の光だけで踊ったり。
 日の出の時の河原で踊ったり、気持ちの良い野原で踊ったりと
 色々なところで踊るのです。自分が踊りたくなったら、
 その場で荷物を放り出して踊り出すのです。
 自然の中に身を置いて、そこで生まれる身体感覚を経験するのだそうです。
 それらのいろいろな場での身体感覚の経験を舞台で、即興的に再現するようです。
 再現と言うよりは、場を鎮めるため方法として、
 いろいろな経験をしてきたわけです。

 これは、かなり常識をくつがえすような話にも聞こえました。
 誰も居ない、原っぱで一人踊る彼女を見たらさぞかし驚くでしょうね。
 でも、冷静に考えていくとなにか見えてくるのです。

 つまり、稽古そのものが、すでに完結しており
 本番はどうでも良いのかもしれないと思うほどです。
 僕たちが見ている舞台は、ただの抜け殻を観ていたのかもしれない。
 彼女は、目の前の舞台には居らず、雪原の上で踊っていたのかもしれない。

 そして、僕はこの時、稽古の意味について考えないわけにはいかなくなった。

 稽古とは、ある目的を達成するための準備をするのではなくて、
 経験をすること、多種多様な経験を積み重ねることではないのだろうか?
 ある技術を達成するための反復練習ではなく、
 その技術が有効であるという経験をすることなのではと。

 演技でいうならば、伝える技術を習得するのではなく
 相手に何かが伝わったとある種の実感を持つこと
 人に何かが伝わったという経験を積むことが稽古の本質になるのではないでしょうか?

 その観点からすれば、おのずと稽古の仕方が見えてくるような気がします。
 稽古とは、さまざまな人生の経験の過程であり
 本番とは、そのひとかけらの断片にすぎないのではと
 そのひとかけらの断片が、おおきな人生を語るにたりる一瞬でなけらばならない。

 そんなことを考えてみたわけです。

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