仕事を楽しくする読書

hana

※3年前にNTTデータの社内報「NEXTメールマガジン」で配信された文章です。リクエストに御応えしてこちらで公開しておきます。ちょっと長い文章ですが、最後までお読みいただくと、百瀬編集長の愛情溢れる編集後記がお楽しみ頂けます。(一部情報が古くなっている部分については加筆修正致しました。)

仕事を楽しくする読書

1.職業読書家という働き方

■NTT勤務時代

 私は平成 6 年に NTT(当時)に入社しました。 平成 17 年に退職するまでの 11 年間の殆ど は附帯事業である通信機器部門に在籍し、支店では営業を、本社ではビジネスファクスの商品化 を担当していました。入社 5 年目の終わり頃、支店に戻り主査任用を受けて部下持ちとなり、長女も誕生して順調なサラリーマン人生をおくっていました。仕事はそれまでの営業経験と本社での業務経験を応用すれば難なくこなせるもので、一生懸命 ではありましたが、反面、まあこんなもんか、とタカをくくっていた部分もありました。当時、インターネットの普及が本格化し、NTT の地域会社では ISDNの普及拡大が目標でしたが、営業現場の旗振り役である私は、この商品に全然愛着が持てていないことに気づかない振りをしてい ました。 

 ファクスだったら商品コードや消耗品の品名まで覚えられたのに、ISDN の機能や ADSL の料 金プラン、光ファイバーの施設エリアが全く頭に入らない・・・。しかし、次の転勤先は東京全 体のネットワーク商品の主管部門。自分を騙し、周囲に隠しながら新天地へ赴きますが、あっと いう間に馬脚を現すことになります。

営業部長への販売状況説明、経営会議や営業戦略会議への報告のために、部下たちが徹夜で作 ってくれた資料を早暁自宅で受け取り、何度も読み込んで出勤し、いざ説明の段になると頭の中 は真っ白。直属の上司の呆れ顔に、情けないやら部下の努力に申し訳ないやらの苦しい毎日でした。

 5 人のうち 2 人の部下が過労やストレスで倒れる中、ある日帰宅すると、当時 2 歳前だった長 女が電源の入っていないパソコンの前に座り、顔をしかめています。

「何やってるの?」 「おしごと。ぱぱの。」 「へー。で、パパのお仕事なんだか知ってる?」 「うん。しってるよ。けーさん」 「ははは。違うよ。パパの仕事は・・・」

パパの仕事は、計算ではなく何だろう?計算以外してるんだろうか?答えに詰まった私には、 この問答はこれまでの仕事に突きつけられた判定表のようでした。 

 その頃、友人がカナダ人宇宙素材学者と結婚し、里帰りのついでに私の家に泊まることになり ました。彼女の夫の開発した素材は国際宇宙ステーション やスペースシャトルにも使われています。小さな社宅でのホームパーティでしたが、アルコール が回り、言語の壁も身振り手振りで補いつつ、天文学者を夢見て望遠鏡を買うために 5 年間小遣 いを貯めた私の少年時代の話をすると、

「なんで和田さんは天文学をやらないの?」 

天文学で喰ってる人なんてホンの一握りだとか、日本の宇宙開発環境の厳しさだとかを話して みるものの、実際に宇宙開発をやってる彼の前では虚しい言い訳に響きます。さらにアルコール が進み、それでも世界で一番美しい式は e=mc2^だね!と杯を交わしながら盛り上がっていきましたが、次の彼の質問にトドメを刺されます。 

「で、なんで電話会社で仕事しているの?」

帰国後、奥方から「夢を諦めて彼はどうやって生きているんだろう?」と真剣に心配して真顔 で訊かれたというメールを貰い、それまでの自分の仕事を恥ずかしく思いました。ただ巧くでき たからこなしていて、ただ巧くできなかったら苦しくて、そんな風に仕事をやっていたことが俄に悔やまれました。 

この翌日は、奇しくも後輩の葬儀でした。 

彼は僕の後任として配属され、休職して海外青年協力隊に志願し、赴任先のフィリピンで海の 事故で亡くなります。彼の死後、友人がモンゴルの奥地で偶然出会った人に「君は日本人か?」 と訊かれ、そうだと答えると「君はオガワを知っているか?その日本人はフィリピンで貧しい学校に LAN を引いていた凄い奴だ。僕は彼に影響をうけて母国に戻って仕事をしている」と熱く語りだした内容は、紛れもなく 27 歳でこの世を去った小川哲也くんのことでした。

相前後して起こったこれらの出来事は、自分の仕事や生き方を見直すのに充分過ぎるきっかけ となり、3年後の年末には、軽率にも退職して独立起業という選択をするに至ります。 

■取締役ではなく取乱役?ベンチャー役員 

一足先に NTT を卒業していた先輩と共に、学習コミュニケーションツールを ASP スタイルで ネット会員に提供する会社を設立しました。企業研修とセットで提供し、教育研修効果を高める というビジネスでしたが、これが全く儲かりません。仕組みに意味があることと、利益が上がる ことは別の問題であることもわかりました。 

株主でもあり創業者でもあり、役員でもありましたが、どうもやりたいことと違うような気がします。取締役なんだからとパートナーに励まされても、僕が働いている動機は、会社役員であ ることとは無関係だと徐々に気づいてしまいます。「どちらかというと取り乱し役です」なんて いう最初のうちの照れ隠しが、誤魔化しに変わり始めた 2 年目、役員を退き翌年株式も全て譲渡 しこのビジネスから手を引きます。

しかし、このベンチャー起業体験からは多くのことが学べました。成人学習の支援という事業 分野であったこともあり、個人や組織の学習に関する専門家や書籍に触れることになるのですが、 この実践領域は殆ど未開拓であることがわかりました。スキルアップという言葉がよく使われま すが、スキルがアップする仕組みは殆ど意識もされずにいます。また、個人が学習するというこ とと、組織が学習するということは、共通部分がある一方で、異なる手順が必要だということも 分かってきました。 

そして、この取組が難しいことは、自分が役員を務める会社にさえ導入ができなかったことで もよくわかりました。「学習する組織」になるよりも、トップのリーダーシップで正しい道へ引 っ張ってもらう安心感にメンバーは流れ、あろうことか意思決定には多数決が使われるという、 およそ人様に学習環境を提供するような会社とは言えない組織になっていたのです。 

学びの基本には「何をしたいのか?」という問いがあります。その根底には「どう在りたいの か?」という問いも必要なのですが、これはなかなか表層に浮かび上がりません。ですので、な にをしたいのかという問い掛けを繰り返すことになりますが、ある日、私のこの手法を見ていた 友人が、「ところで、和田さんは何をしたいんですか?」と問い掛けてきました。反射的に「本が読みたい」と答えた私は、気がつけば、起業このかた NTT 社員時代よりも本を読まなくなって いました。 

私の研修企画書などは複数の書籍から抜き出したエッセンスを再編集したものがあり、実際に NTT グループで採用されたものもあります。これらの読書は目的があって読んだのではなく、読 みたいから読んだものが記憶され、必要なアウトプットとして整理された結果が企画になってい ました。 

■アウトプットではなくインプットを 

「では、読書することをコミットしませんか?」

一般的に営利企業はアウトプットを評価しますが、インプットは奨励されこそすれ直接業績として評価されることは稀です。ましてや、アウトプットの内容をコミットしないという仕事はな いでしょう。

一時間にこの製品にこのラベルを 100 枚貼る、一日 8 時間で 800 枚貼る、といった生産的な 仕事ならば、1 日あたり 800 製品の達成をコミットするようなことは可能でしょう。しかし、例えば、何かを創造するような仕事の場合、一定の安定したアウトプットを出し続けることは本当に可能なのでしょうか?生産と創造の間には乗り越えるのが困難なデスバレー(死の谷)の存在 が指摘されていますが、その谷が年々深く広がってきているのは、一つには生産のパラダイムで 創造をコントロールするという発想があるのではないかと思っていました。 

創造を扱えるような組織のミクロモデルとマクロモデルを創り出せたら、と考えていた私は、 すぐさまこの提案を受け入れて、プロ読書家となりました。アウトプットとして何が出てくるか はわかりません。インプットとしての読書だけを労働としてコミットして、アウトプットによっ て得た収入は全て会社に入れる、ちょっと大袈裟に言えば、これは現代の労働契約に対するアンチテーゼでもあります。

前置きが長くなりましたが、NTT を退職して独立起業、そして職業読書家という自在なこの 5 年間に私の体験したことをお話ししようと思います。大きなシステムの中にいると、 自分たちのシステム全体を見ることはできないわけですが、飛び出した元グループ構成員が外部からの眼差しを送ってみたいと思います。 

2.組織開発の可能性

■問題解決という方法への疑問 

私達が子供の頃から疑問を持たずに信じている方法論に、問題解決というものがあります。アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズのベストセラー『話を聞かない男、地図が読めない女』によれ ば、男性は自身の有能性証明欲求が強く、そのためある課題に対しての解決策を出したり、解決 に乗り出すことを好むそうです。この説からは、男性中心に設計された現代の多くの企業組織が 問題解決という方法を、商品開発から社内評価まですべての基準に置いている理由が透けて見え てきます 

この方法へ、論理思考を適用して成功したビジネスの代表が、米国大学の MBA でしょう。90 年代は米国への MBA 取得留学が流行し、ビジネススクールは我が世の春を謳歌していました。 しかし、論理思考・分析思考による問題解決が、長期的企業経営という行為には、それほど役に立たないと いう指摘がされるようになってきます。この議論の急先鋒はヘンリー・ミンツバーグであり、 『MBA が会社を滅ぼす』に詳しいですが、出世の追い越し車線を走れるというプロモーションに 集まった学生が、会社に戻ったあと、自分の評価に繋がるかどうか分からない長期的なプロジェ クトに真剣に取り組むかどうかは、論理的に考えると絶望的だ、というわけです。 

論理思考による問題解決は、間違った方法ではないのに何故役立たないのか?これはマネジメ ント対象が規模的に大きく時間的に長くなると特に目立ってきます。研修会社を経営していた時 期に、ある会社のヒューマンエラーを減少させるための研修を設計企画したことがありましたが、 その際、失敗学で有名な畑村洋太郎氏の監修した JST(科学技術振興機構)の「失敗データベース」を活用していました。すると、そこには問題解決手法を万能視した失敗事例がいくつもあり ました。 

有名な例では東海村 JCO 臨界事故があります。この事故は、少々乱暴ですが、端的に言えば現 場のカイゼンが積み重なってバケツの中で臨界状態が起きてしまった事例です。報告書を読むと、 非常に操作性の(意図的に)悪い器具からの溶液搬出作業を、数次にわたって現場作業員とマネ ージャーが協力して改善策を作り、決裁を得て実行しています。この過程で準備されていた数段 階の安全策は無効になり、結果的に国内初の臨界事故が発生します。

何故こんなことを、と笑うのは簡単ですが、このような事例がたくさんあることに気づきます。 人件費の削減と景気低迷、節税と社会保障の崩壊など、部分的に正しいことが全体的長期的には 誰も望んでいない結果を導いてしまう事例はいくらでもあります。これは、その仕組の内部に存在する人は、このことに気付けないということが大きな原因です。 

■分析思考からシステム思考へ 

この背景として問題解決に分析思考を万能視していることがあると思います。何が問題か?と いうことを決めるにあたっては、その範囲を区切る必要があります。つまり、何を因果として取 り出すかによって問題も変わるし、その解決策も変わるのです。しかし、 分析思考では何を課題 にするかは決めることができないのです。

問題が単純で解決策が明確な場合、原因追求と問題解決が現状分析によって導き出せますが、 問題が複雑で相互に連関し解決策がわからない場合、分析思考の単純適用は私達に判断を誤らせ てしまいます。昨今の薬が効きにくくなったのは、因果関係が分かっている物質しか使えなくな ったことが原因だという専門家もいます。 

経営学の世界では、この課題設定能力は重要な要素として認められつつも、あまり扱われていなかったようです。ある高名な経営学者も、課題設定能力を既存の経営学の範囲で扱うのは大学 経営上難しい、と言っている通り、MBA 取得を目指す学生や派遣元の企業には、数字で簡単に説 明できる「スキル」の方が受けがいいようです。

分析思考のもうひとつの弊害として、数字で簡単に説明がつくことを扱う傾向が強くなります。 解決策から問題を逆引きするようなことまで起きていることを考えると、問題解決への分析・論理思考の過剰適用だと言わざるを得ません。 

しかし、分かっていることしか扱わないという傾向を憂慮した一部の大学は、課題設定能力の 開発組織を数年前から設置しています。課題を設定する能力はどうやって伸ばすことができるで しょうか?一つの方法は専門性に自閉させないということであり、東京大学では学術俯瞰講義と いうのを取り入れています。これは文理の相互学習をすすめるもので、全学生が受講を義務付けられています。 

話が前後しますが、どうすれば課題を設定する力が伸ばせるのでしょうか?それには、自分が 組み込まれている構造の外側から見ることが必要ですが、これは言うほど簡単なことではありま せん。アボットの『フラットランド』という 19 世紀の小説があります。1 次元の世界に 2 次元 の住人である「円形」氏が自分の「面積」を言葉を尽くして説明し、その姿を表しますが、1 次元世界の住人には、点が現れ線分が伸縮しついに点になって消える奇術にしか見えません。結局 理解されることはなかった、とあります。この話には続きがあって、円形氏の前に「上」という 方向からの声だと告げる「球体」氏が 2 次元世界に現れ、点が現れみるみる円が伸縮し点となっ て消える「奇術」を見ることになります。しかし、自らの経験と照らし合わせて、「上」が実在 すると主張した円形氏は危険思想の持ち主として、ついに逮捕されてしまうのです。 

私達も全く同じことをしていると言っていいでしょう。事程左様に自分を含むシステムを、外部から見るというのは難しいものです。ましてや、その自分を含むシステムに手を加えるという のは、飛んでいる飛行機の設計を変更するようなもので、横断的な知識や技術、そして勇気も必要になります。 

部分最適が全体最適に繋がらないという問題にどう取り組めばいいか?これに対する一つの回 答に、MIT(マサチューセッツ工科大学)で理論化された組織学習論があります。中心的役割を 果たしたピーター・センゲの『学習する組織』は世界的ベストセラーになりましたが、この理論 がきちんと伝わっているかは議論の余地があるところでしょう。 

時計を分解して、その部品をごちゃっと集めても時を示すという機能は果たせません。部分最 適は、問題のない部品を一箇所に集めただけのトータリズム(合計主義)が根底にあり、組織論 でもこの誤用があります。全体主義という言葉が日本では誤認されていますが、全体的(ホーリ スティック)な考え方で「時を示す時計」という機能を見る必要があります。一方で時計の部品 は、その役割を果たしているうちは全体を見ることができません。部分が全体の一部であること を感じ取り、全体は部分である、あるいは部分は全体であるといった感覚はどのようなものでし ょうか?後述の清水博先生は「あなたの細胞になったことを想像しなさい。あなたという全体で もあり、あなたの一部でもあります」と仰っています。

■能力開発から能力解放へ 

庭師のマネジメントという表現があります。花を咲かせるために庭師ができることは、豊かな 土壌と十分な水と太陽のあたる環境を用意して、病害虫の世話をすることしかないことを意味しています。「さあ、咲きなさい!」といったところで、花が咲くわけではありませんし、何時咲 くかを決めるのは、植物自身です。結果的に咲かない花もあれば途中で枯れる花もあるでしょう。 辛抱強く世話をして、より色鮮やかな、より大きな花を咲かせる可能性を高めることはできます が、それは種の持っていた可能性を広げたに過ぎません。しかし、何よりも庭師にとって必要な ことは、その種が「花を咲かせる」と信じて咲くのを待つことなのです。 

育成という名の教育研修プログラムが「咲け!咲け!」とばかりに溢れています。生物が成長 したり躍動したり、疲労したり老衰したりすることを参考にしたモデルというよりは、人間を産 業機械の部品のように見做したプログラムが多いように思えます。その証拠に、欠けているスキ ルを補強する、という見方がありますが、これは部品の標準化手法が適用されています。米国海 兵隊の育成訓練に適用された FSS などは、兵員能力の標準化に大いに役立ち、経営戦略論との親 和性も高く、あっという間に日本企業の教育研修プログラムに広まっていきました。 

戦争や軍隊をメタファーとした企業経営や組織論は今でも大流行で、あと 10 年くらいは続く かもしれません。戦争は幸せな結果をもたらさないことを知っているのに何故使うのかといえば、 分かりやすさに尽きると思います。しかし、戦略論好きなマネジメントに訊いても、クラウゼヴィッツの『戦争論』、カイヨワの『戦争論』、シーザーの 『ガリア戦記』のどれかを読んだという人に会ったことがありません。もっとも、これらの古典を読んでいたら、戦争をメタファーに経営することの矮小さに気付いて、もうちょっとマシなメタファーを使うことでしょう。 

外側から装着させられたスキルとは別に、自分の内側から発揮される能力があります。これは 元々備わっていた能力が解放されてゆく姿にも見えます。内側から湧き上がる力は強く長く続き ますが、これはいつどんなふうに解放されるかわかりません。もとより計算のために測れること を第一の価値に置くようになったマネジメントにこれを扱う術はありませんし、曲解すれば、才能主義にも陥入りかねません。 

外からの働きかけと内からの解放、このバランスが良くなるだけで、随分個人も組織も能力を 高めることができるのではないか?と思うに至りました。 

3.群れ合いと出会い 

組織の力を上手く発揮させる方法はないものか?とあれこれ悩んで模索するうちに、驚くよう な出会いに恵まれていきます。なかでも衝撃的だった三氏について触れておきたいと思います。 

■関係性のハンドル ~ 編集工学研究所所長 松岡正剛氏 

2006 年 2 月号の Harvard Business Review 日本語版の『知的リーダーの肖像』というイ ンタビュー記事を読んで、あまりの面白さと底知れぬ深さに驚き、この人は何者だろうと、その著書はもとより、ブログ形式で綴られたブックナビゲーション『千夜千冊』を読み漁ります。松岡氏曰く、問題解決の方法は複数の主題の「間」にあり、これらの関係性を見つけ出す方法が 「編集」であると言います。知の構造を理解し、知識や情報を再編集してカオスと矛盾を恐れず 「遊ぶ」ということを言うのですが、これは衝撃的なアプローチでした。 

友人が「山と渓谷」という出版社の社長になり、彼の媒で松岡氏との対面が麹町の二期倶楽部 「冊」で実現しますが、今まで考えていた組織や能力解放に関する構想などを中心に二時間ほど 熱っぽい対話をしました。例えば、企業組織風土改革には経営コンサルではなく、民族誌学者に 「タバコ部屋のフォルクローレ収拾」と、小説家に「望んでいる組織のストーリー」を書いてもらって、この矛盾を楽しみながら扱うようなナラティブ(物語)ベースのマネジメント企画構想 についてお話すると、「面白いね。じゃあ彼を紹介しましょう」と、その場に居合わせた某大ビ ジネススクールの副学長の袖を引っ張ってきたりします。 

松岡氏のコーディネートする連塾などにも参加するようになり、芸術、学術、宗教、文芸、ス ポーツ等あらゆる一流コンテンツに触れ、さらにその関係性をハンドルするという誠に贅沢な知的トレーニングをするようになりました。 

■未来からの到着 ~ 東京大学名誉教授 清水博氏 

連塾の講義で特に印象深かったのが「場」の研究で有名な清水博先生でした。バイオホロニス (生命関係学)の権威でもありますが、命の二重構造という考え方を「即興劇モデル」という形 にして、命という視座から存在の世界を見る哲学を創りだした人でもあります。「現在という場 に到達するのには過去からアプローチする方法と未来からアプローチする方法があるが、未来からアプローチする方がほんの少しだけ現在に早く到着する。柳生新陰流の後の先という剣がそれだ」といったような話が連打され、時間という軸へのハンドリングにも興味を強く持つようにな りました。 

未来から現在へアプローチする、そんな刺激的な方法が柳生新陰流に、と思った私は関連する書籍を読み漁り、尾張柳生について調べ、最後には津本陽の『柳生兵庫助』もあっという間に全巻読破します。 そんな時、清水先生がパネラーとして登壇するダライ・ラマ 14 世来日講演をプロデュースした人と出会い、先生の主宰する NPO「場の研究所」の勉強会に参加することになりました。 

ついに清水先生にお会いして、その方法が訊ける、と緊張して会場の十思スクエアに伺うと気さくにも先生から「清水です。ほう、読書家とは、想像を絶する職業ですね」と声を掛けていた だき、さらには隣席の方にご挨拶すると「柳生です」なんと、柳生新陰流第二十二世宗家、柳生 耕一(平厳信)さんでした。修行不足で未熟者の私には未だ掴みきれてはいませんが、時間をハ ンドルする方法が朧気ながら見えてきました。 

この時間という軸はいろいろなアプローチ方法があると思います。例えば、情報学研究所の高 野明彦教授の取り組んでいる連想情報学は、未来価値創成を目指して情報の距離を計算する連想 計算エンジン(GETA)を世に送り出しています。未来への眼差しを作る新聞サイトの提案をする際に高野先生に相談に伺いましたが、知らないことに差し掛かるという人間の動作や連想が、 既知ではなく未知からの到達可能性を開いてくれるというような対話を、気がつけば数時間も続 けていました。 

■全体性の回復 ~ 一橋大学名誉教授 野中郁次郎氏 

国連大学の宮尾尊弘教授が、IDEO のティム・ブラウンの『デザイン・シンキング』と多摩大学の紺野登教授の『知識デザイン企業』について国際 P2M 学会の勉強会で講演されたのを聞き、 資本提携先の社長に紹介すると、紺野氏は野中先生と SDD(Strategic Design Dynamics)と いう理論を平成元年に発表していることを教えられます。彼は紺野氏が当時勤めていた広告代理店では、カウンターパートナーだったのです。

この奇遇を友人に話すと、「来月野中先生とお会いするけど一緒にどう?」と、経営哲学学会 の新春対談会に同席することになります。 

細部と全体、過去と現在をジャンプするような関係性を持つことや、コンテクストをジャンプ して紡げることの重要性を説き、reflection in Action(行為の只中での熟慮)が本当のプロであると言います。

日本企業こそが Phronesis (賢慮)を individual(個)から collective(集合)への移行の先陣を切らなければならない、なぜなら、と、ポランニーやチクセント・ミハイなど暗黙知のよう なコンテクストに着目した人々がハンガリー人であることを紹介しています。ハンガリーはマジ ャール語というウラル=アルタイ語族に属する「東洋的」言語であり、つまり日本語も同様に、モ ノよりもコトを表すに適した言語・文化で、この優れて述語的な言語を扱っているからこそ、日 本人、日本企業は「プロセスこそが実在である」というマネージングフローを「巧く受け取ること」ができると言います。 

米国流の強さはどこにあるかといえば、暗黙知を形式知に変換させるところであり、日本の暗 黙知などを上手く理論として体系化していくのはいつも米国の研究機関であることを指摘してい ます。言語化と行動を伴う暗黙知を常に変換し続けることに知識創造の鍵があり、このメソッド を日本の組織が生み出せれば、と期待しています。 

松岡氏の「関係性のハンドリング」、清水先生の「未来からのアプローチ」、野中先生の「全体性の回復」。もう既に充分過ぎるお題であり、あとはこのエッセンスをどうやって組み合わせ て創造を惹き起こすのかが私の仕事になると、半ば確信めいたものを持つようになります。 

自分の求めているものが何なのか、求めていることを表明しているのか、これは最近の大人が サボりがちなのではないかと考えています。私も忙しさにかまけて、求めるものに焦点を絞る努 力や表明する努力を随分長くサボったことを反省しています。でも、真剣に求めれば、こんな人達と直接会うこともできましたし、一緒に仕事もできると思うと、こんな幸せを味わえずにいる のは、勿体ない話です。 

松岡氏の編集工学研究所とは Web サイトの構築、野中先生とはその著書『組織は人なり』への 外部アドバイザーとしての執筆協力をしました。清水先生には今後『場の思想』の普及に協力したいと思っています。 

さて、まるで導かれるようなこの偉業を成し遂げつつある各界の巨人とのめぐり合いは、清水先生の表現を拝借すれば「出会い」であり、世界の枠が開かれた場で異質の人が出会うときに我 と汝の関係が生まれ、その両者も場も新しく生まれ変わる、創造と共創の条件であると言えます。

一方で、世界の枠が閉鎖しその中に拘束され、枠を守ろうとする「我々」が存在する場を「群れ合い」の場と呼び、創造が生まれないのです。多くの組織がそうであるように、存在させるこ とを目的にしてしまい、群れ合いの場から抜け出せなくなります。内部からの創造を許さないの ですから、環境適応には外部からの枠を移入させるしかなくなります。いいお手本が外部にあっ た時代、いいお手本が外部にある業界はそれでいいのかもしれませんが、お手本を創ることがで きない組織に、自分たちで切り拓ける未来はあるのでしょうか? 

4.働き者と怠け者の存在 

■学習型組織の難しさ 

関係性の起点になる個の多様性と、ビジョンという未来からのシナリオ、マネージングフロー という動的モデルの全体性は、どうやら「学習する組織」という考え方にかなり含まれる部分が 多いことが分かってきました。折角アングロサクソンのお家芸として MIT が理論化しているので あれば、その中に実践知を織り込むことで、しなやかでしたたかな組織ができるのではないか? と考え、改めてセンゲの提唱する組織学習を実践する方法に取り組みます。 

覚悟はしていましたが実践は困難を極めます。なかでも個々人が信じている「メンタルモデ ル」(考え方の枠組み)を扱うには時間も労力もかかり、このメソッドが普及しない大きな原因 でもあると思います。 

さらに、集合知性なるものを見たこともなければ体験したこともない人にこれを説明するという難問も立ちはだかります。みんなの知恵は先生の標準模範解答以外の正解を作れるとは、なかなか信じられないのです。 

また、学習型組織というのは「学ぶ」ことを前提にしていますが、そもそも学びなんか嫌い! という人も存在します。「決める人」を作るのではなく、「自然に決まって」いく為には、メン バーの関わりが不断に必要なわけですが、関心の眼差しを送り続けることに対する面倒くささが 敬遠されます。

しかし、何かを決めて実行することが仕事だとするならば、その決定に関与しないのは「怠 け」です。仮に決定を託すのであれば、信託にせよ神託にせよ、恰も自分が決めるかのごとく委託者との一体感がなければなりませんが、そんな人は殆どいないのが現実でしょう。 

また、成人の学習には、子供の勉強と違う厄介な問題があります。それは学習の前に「脱学 習」が必要だということです。私達は本当に初めて知るようなことはだんだん少なくなり、真っ 更な心で感じ学び取ることは齢を経る毎に難しくなります。知識が学習を阻害しないためには、 学んだことを手放す「脱学習」が必要になりますが、強固に構成された知識を持っている人ほど これは難しく、また、勇気の要る行為になります。 

脱学習は unlearning の訳語ですが、哲学者の鶴見俊輔氏は「学び解し」という訳を充てまし た。これは非常に良い訳語だと思います。手放すというよりは、新たに学ぶために既知と未知を 学び解す、そんなことも必要になってきます。つまることころ、学習型組織というのは決定し実行する為の学び解しと創造を楽しむ人を前提 とした組織であり、もしこれを避けたいと考える人がいるならば、この手法の適用は困難になる のです。

■依存の二形態 一方的依存と相互依存 

自立した個人にとって、組織にいる理由はありません。依存という言葉には負の響きがありま すが、家庭も会社も国家も地球環境も、全ては依存関係にあり自立した個人などという表現は方便に過ぎません。それは相互に依存しているのであって、お互いを必要としている状態というのは、組織としての結束力も継続力も強く、この力を巧く扱うべきだと思います。

問題になるのは一方的な依存関係です。大組織や長期間の組織になると、相互依存の関係が見 えにくく、ともすれば一方的な依存関係のように見えてきます。例えば、「優秀な 2 割の社員が 残りの 8 割の社員を養っている」といったことがよく言われますが、これは一面的には事実だと しても、能力を今発揮しているのが 2 割で、残りの 8 割はこれから発揮する社員だと捉えるべき でしょう。さらに、今発揮していない社員がいるから、今発揮している社員が存在すると見るべ きであり、8 割をリストラ対象にして他社からヘッドハンティングした組織が上手くいったため しがないことからも、一方的依存関係というのは殆ど存在し得ないことが分かります。 

国立能楽堂の芸能部長が、派手という言葉は「葉出」に由来し、そこには豊かな地味が必要に なるといった内容をある雑誌上で述べていましたが、地味を見ずに派手だけを見るのが成果主義 賃金や業績主義評価でしょう。小さな組織や時間的に限られた組織だと、相互依存の関係が見え やすいので、成果や業績といったモノサシを使わなくても存在の必要性がわかります。しかし、 大組織では役割分担は必須であり、ひいては相互の関係に対する無関心まで生んでしまうことが あります。人の仕事に関心を持たない構成員がいる組織は、もう既に組織ですらありません。 

会社はどこにあるのか?この質問に対して、殆どの人は会社の所在地を答えます。では、もし 私とあなたが会社を作る場合、その場所はどこにあるのでしょうか?会社は「お互いの認識の 中」にあるのです。私達は組織だと思った瞬間から認識の中に会社は作られるわけで、登記やら 事務所やらは全て手続きに過ぎません。一方、どんなに立派な事務所や組織表、委任内規があっ ても、お互いをメンバーだと思っていなければ、既に組織ではないのです。

サハラ以南の人々が持つ「ウブントゥ」の精神という枠組みでは、挨拶は「サウボナ(私には あなたが見えます)」と呼びかけることではじまり「シコナ(私はここにいます)」と答えるこ とで結ばれ、この順序は決して逆にはなりません。相手の存在によって初めて自らが存在し得る というこの精神は、Linux のバージョン名(Ubuntu Linux)にも使われています。相互依存が 見えなくなると、依存していると感じている人は一方的に依存して隠れて怠けようと考えるよう になり、依存されていると感じている人は怠け者を無視するか排撃して都合のよい状態をつくろ うと考え、お互いの無関心によってやがて組織は引き裂かれていきます。 

■怠け者の存在を許容した組織 

こうして見ると、現代の組織の殆どは働き者の一部マネジメントと怠け者のボトムを前提に構 成されていることが分かります。この形態が悪いわけではなく、 問題になるのは働き者も怠け者 も、現状を肯定してしまい、「群れ合いの場」になってしまっている為に創造が起きないという ことです。 

創造が必要ない組織はこれでいいのでしょう。ただ、本当に創造が必要ない組織を、そもそも 人間がやる必要があるのでしょうか?もう既にコンピューターとロボットに任せておけば事足り る仕事しかないのではないか?と私は考えています。事実、私の会社では、このような仕事はど んどんマルチロボティクスと IT で巻きとっています。人間がやるよりも遥かに正確に早く、しか も安くできますから、勝負の行方は明白です。 

階層型組織というのは、怠け者にとっては好都合な組織とも言えます。ビジネスを創りだすよ りも、命令されたことをこなす方がずっと楽だというのも事実であり、お片付け主義は世代と無 関係に広がっています。外部へ関心を持たず、自閉してタコツボ化した組織の中で夢をみるのも、 なかなか気持ちのいい話かもしれません。 

そして、階層型組織という構造を強化しているのは、マネジメントを受けている側なのです。 これは、アダム・カヘンの近著邦訳『未来を変えるために本当に必要なこと』にあるとおり、 「する力」を「させる力」に変えてしまっているわけです。カヘンは愛と力のバランスで二足歩行をするようなものだと表現しますが、立ち上がる力は「する力」が担います。しかし、この推 進力はあっという間に「させる力」となって、組織をよろめかせます。

現状に問題意識を持つ人も、マネジメントのハードワークを見ると尻込みするでしょう。働き 者と怠け者、どちらか一方の形態が正解であるとは思えません。怠けるといえば響きは悪いです が、今発揮できる、今発揮する覚悟があるかないかであり、概ね組織の中の 2 割くらいが発揮しているというのが現状だと思います。そして、これから発揮する人たちのために組織学習は有効なのです。 

ボトム層を含めて存在する普通のメンバーが、内部からの創造を生み出す仕掛けが学習する組織にあると思います。 

5.創造できるのは組織だけ 

■能力解放準備には読書 

読書が見聞を広めて充実した人生を送ることや豊かな人格形成に役立つことに疑問を差し挟む 人はいないと思います。仕事をする上でも社会人の教養として本ぐらい読めと上司や先輩に言わ れた経験は誰にでもあると思います。

しかし、その効果はすぐに出るものではありませんし、仕事にどう役立つのかはあまり言及さ れてきませんでしたが、ここでは「経験」と「想像力」という 2 つの切り口でご案内してみよう と思います。 

私の考える OBT(On the Book Training)は、現在の人材育成で主流の、業務を経験するこ とでスキルを身に付ける OJT(On the Job Training)と、普段の業務から離れて別のスキル開発 をする Off-JT とほぼ同じように「経験」という共通のキーワードがあります。OJT は実経験で あり Off ー JT は仮想経験ですが、読書も仮想経験と見做すことができます。 実体験と仮想体験 は違うものですが、脳の記憶はその区別ができないといいます。 

何故先輩社員は仕事ができるかといえば、それは経験であり、経験は practical wisdom(実践知)を生み出す母胎となるものです。読書によって経験を豊かにできるとするならば、実践知を母胎として実践理念をも生み出せるかもしれないのです。 

時間がかかり、いつ結果が出るかわからない取り組みは、特に検索エンジンという情報の「どこでもドア」を手に入れた私達には無駄の多い方法に思えます。しかし、検索の最大の弱点は、 知らないことは調べられないということです。スタートがゴールになってしまう検索では、何か にいつの間にか差し掛かることは難しいのです。差し掛かる、未知のハンドリングに今後も読書 は欠かせないと言えるでしょう。  

 ■想像することは創造の基礎 

経験を増やすということは、仕事という物語を構成するシナリオを豊かにすることでもありま す。読書は単にシナリオを蓄積するだけではなく再編集する為に必要な想像力をトレーニングし てくれます。

記憶して忘れ、さらに何かの経験をきっかけにまた思い出して、シナリオ蓄積と再編集の力は 鍛えられる。お茶の水女子大の外山滋比古名誉教授は、本の読み方について「忘却を潜らせた知的発見は読者の経験とも結びつき新しいオリジナルな思考が生まれる」と発言しています。 

ビジネスそのものを創り出す為には、その仕事の物語が作られなければなりません。語られ、 伝わり、再編集が施される環境がどうしても必要になるのです。これらの環境は経験をどうやって積むのか、その経験をどう扱うかに掛かっていますが、読書は経験の「蓄積」と「扱い」の両方を実行できるのです。読書による仮想体験シナリオの蓄積と実体験との再編集で仕事物語を生み出す、そんなサイクルが動き出すと、いよいよ読書が直接役立つことが実感できます。 

こうしてみると、読書により準備された経験と想像力を、個人に留めておく理由がないことに 気づきます。経験と想像力を組織で扱う方法があれば、個人の読書を発端として、創造と共創の 「出会いの場」が創出できるはずです。 

私は読書による経験を仕事に活かすために、組織に対して読書経験と現実業務経験を再編集す るファシリテートサービスも提供します。ある企業には、その会社の「本棚」をプロデュースし ています。これは、本という共通の仮想体験を通して、ビジネスという物語を共通のシナリオとして描くための環境を提供する試みです。  

■作業は IT×RT で 

創造と共創の「出会いの場」の可能性があるにもかかわらず、創造の必要性の低い作業がまだ まだ多く存在しているのも事実ですし、この作業に嬉々として逃げ込む人がいることも知ってい ます。しかし、それは平和で豊かな現代日本に折角生きているのに勿体無いのではないかと考え ます。単純な作業はいずれ情報技術とロボット技術にリプレイスされてしまうわけですし、私は 寧ろそのリプレイスには積極的に加担したいと思っています。 

手の道具がハサミで脚の道具が自動車と捉えるならば、パソコンは大脳の道具であるといえま す。この大脳の道具は構内ネットワーク(LAN)によって、初めて他人と相互接続され、インタ ーネットによって世界中の大脳が連携することになりました。ネット黎明期に、これで 20 世紀 の残した難問は集合知性によっていよいよ解決するだろうと思っていましたが、実際にはインタ ーネットによって知性が統合した結果と思えるようなサービスは見当たらず、ジャンクコンテンツばかりが目立っています。10 年前に P.F.ドラッカーが『ネクスト・ソサエティ』で指摘した 「ニューエコノミー、未だ至らず」という状況とほとんど変わっていません。 

誤解を恐れず言うならば、10 年前よりも状況は悪くなっているようにも思えますし、インター ネットによって人々の知性が磨かれたかといえば、寧ろその逆にも見えます。民主的な金属であ る鉄の時代を嘆くギリシャ神話や、プラトンの『パイドロス』に見られる文字の発明による人間 の堕落と、現代のネット環境はピッタリと重なって見えます。しかし、今更文字を忘れることが できないように、私達はこの利器を使って新しい何かを創造する必要があるのです。それが何か は未だに分かりません。産業革命は蒸気機関車が貨物列車を牽いたことで本格化しますが、この ことに気づくまでに実に 60 年も掛かっていることを考えるとイノベーションというのは容易で はないこともわかります。システムの外側に飛び出すような視点が必要なのでしょう。 

想像して創造することが、IT と RT(ロボットテクノロジー、ロボティクス)にできない技芸 として人間に残されると考えます。 

6.読書のすすめ 

■育児書の執筆でわかったこと 

2008 年に育児書を共著しました。出版社から「ビジネスコーチングのスキルを育児に転用させてストレスを抱える母親たちを応援する」本を書いて欲しいと依頼を受けた、ビジネスコーチ の近藤直樹さんが共著を持ちかけてきたのがきっかけでした。 

テクニックを部分援用したハウツー本が想定されていたのですが、書き進めるうちに、育児を スキルで解決、といった表現をするべきではないと思うようになりました。しかし、出版社が言 うように「育児は問題解決パラダイム」で多くの母親が捉えていることも事実で、ネットの育児 コミュニティには、正解を求める多くの母親の問いに溢れています。 

MMHA マネージャーズ・メンターズ社代表のマーゴ・マリーは『メンタリングの奇跡』の中で、 メンタリング(支援)の 4 分野の代表スキルとしてティーチング、コンサルティング、カウンセ リング、コーチングがあるが、この全てを駆使するのが育児であると述べています。育児によっ て結果的に親がトレーニングされるのは、今、マネジメントに最も必要とされるスキル群である ことも興味深いですね。この 4 つの分野をそれぞれ取り出して実施することを強化メンタリング と言いますが、育児は同時に全てのメンタリングを行う最高のトレーニングでもあるのです。 

取材で訪れた、松戸市の常盤平幼稚園での経験は衝撃的でした。その内容は拙著『怒らないママになる子育てのルール』に記載しておりますので割愛しますが、この幼稚園には図書館があり ます。司書教員を置いて子供達の読書履歴を把握し、担任も一緒になって読み聞かせを中心とし た教育を実践していました。創立者である森口清氏の「絵本を読んでやるということ」が想像力 を逞しくし、生き抜く力を育むとする強い信念が感じられます。 

さて、私達大人は、この 10 年間でより想像力を駆使するようになったと言えるでしょうか? カーナビやケータイ、ネット依存で記憶力や想像力を使うシーンが減ったというのが実感ではな いでしょうか。何人の電話番号を覚えていますか?ネットで検索しないであれこれ想像したもの、 いくつありますか? 

同じようなことが過去にもあったようです。内山節の『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』によると、1964 年を境に祖父母からの昔話が断絶しキツネに騙されるという経験が 全国的に消えたといいます。この年開催された東京オリンピックは爆発的なテレビの普及をもた らしましたが、家族の物語はテレビに依存するようになります。テレビの圧倒的な説得力の前に、 想像力は殆ど使われなくなり会話も大幅に減少したことは想像に難くありません。 

子供への読み聞かせは単に読書習慣をつけるといったことだけではなく、物語るということの 意味の重要さを知ることにもなります。読み手側にも、音読による物語の出来(しゅったい)と いう経験を生み出し、読み手と聞き手の創りだす場を味わうことになります。物語が目の前で動 き出す瞬間を共にする、この物語の再生は、シナリオ再編集による物語創造の基礎となり、ビジ ネスでも全く同じことが必要になっていることを考えると、非常に意味のある行為であると言えます。 

■意識の半径 

この 10 年で職場が大きく変わったことをあげると、「声」が消えたことでしょう。電話で営業部が「ありがとうございます!早速手配します」という声をあげれば、ああ、受注したんだな、と周りの人も感じ取りますし、サービス部の「大変申し訳ありません!すぐに御連絡します」と いう声を聞けば、クレーム対応の準備を、と身構えたものです。しかし、今の職場は電子メール と Web システムでコンテンツだけが遣り取りされるようになり、電話から漏れ聞こえのような 「雑音」は排除されました。その結果、すべての人がパソコン画面に向かって寡黙に作業をする ようになり、他の人が何をしているのかわからなくなってしまいました。 

自分の意識を他人にまで及ぼす、自分の意識の半径をハンドリングすることは、本当に難しく なってしまい、多くの人が集まった職場にいながら自閉した状態になっているのです。まさに清 水先生の言う「群れ合いの場」になってしまったのです。 

しかし、一方で、希望の持てるデータがあります。東海道新幹線の利用者は 1 日 35 万人です が、大半はビジネス客の利用です。ビジネスコンテンツが標準化されプロトコルも統一されたに もかかわらず、パワーポイントを印刷して、わざわざ大阪へ出張して会議をする理由は、この雑音を伝えに行く為のようなものです。つまり、説明はできなくても、コンテンツだけでは伝わら ない何かがあるから、テレビ会議が簡単にできるのに時速 300km で毎日 35 万人が移動していると考えると、意識の半径を他人に及ぼしあうこと、説明できない何かを含む雑音を混ぜないと うまく仕事ができないことを、私達は体感的には理解しているのかもしれません。 

とはいえ、電車に乗れば、8割方の人が携帯端末をいじり始めます。朝の通勤時間はバラバラな人が乗っているせいもあり、一度もいじらない人は皆無でしょう。午後の電車も小さな子供連 れの母親が携帯から目と指を離さず、子供達を殆ど無視しているのをしばしば見掛け、心が寒くなるのを感じます。 

自分の子供に対しても関心が持てない、これは想像力がケータイ、ネットによって破壊されつ つあると言っていいと私は確信しています。私の職場では「今日は検索禁止!」という指名をす ることがあります。その人は1日ネット検索禁止で、他の方法で調べることになるのですが、困 惑しつつも楽しんでくれているようです。人に尋ねた結果、その人が検索エンジンを使って調べ たとしても、その依頼回答行為にコミュニケーションが存在し、人に関心を向ける、意識の半径を広げる練習になっています。 

PC も検索も携帯も、その便利さに溺れると人間にとって最も大事な創造するための想像力が破 壊されることを理解の上で使うべきでしょう。便利な都市生活が肥満を生み出し、その代償とし てフィットネスクラブに通うのとよく似た構図が想像力と読書の間にもあると思います。便利さを味わうたびに読書を意識するくらいが丁度いいのかもしれません。 

■成長を楽しむには待つ勇気を 

ご飯を食べて、そのご飯でどれだけ大きくなったのかを説明するのは不可能です。しかし、ご 飯を食べずに大きくなることはできません。因果関係の説明はこんな身近なことでも難しいので す。ましてやどれだけ学んだらどれだけ知性が高まるかといったクオリティに関する因果など、 線形代数になる可能性すら無いでしょう。それでもクオリテイをあげる方法は、学習しかありま せん。どれだけ練習したらワールドカップに出られるかは誰もわかりませんが、練習しないで上手くなる方法がないことは誰でも知っています。 

私立進学高の教員から、「うちの子はあと何時間勉強したら〇〇大学に合格できるのか示して 欲しい。プロなんだからそれくらいわかるでしょう」と三者面談で生徒の父親から詰め寄られた 話を聞きました。分析思考に毒されている残念な例です。 

効率的に生活することをライフハックと言うそうですが、生きることの効率をあげることを突き詰めると、さっさと死ぬことになってしまいます。生きている状態そのものに意味があるのが生命であり、組織を生命活動の表現と見做すならば、そのはたらきにこそ意味があります。決してアウトプットの為に存在しているのではないでしょう。 

生きている状態そのものに意味があることを認めると、成長や変化を待つコト自体が楽しみで あることが分かります。生まれたばかりの赤ちゃんを、すぐに老人になって欲しいと願う親はいませんね。 

さて、この成長を楽しんで待つためには、ある程度の冗長性があると随分やりやすくなります。 社員として働いた経験のある私から見ると、NTT グループは充分な冗長性のある環境です。挑戦 に失敗しても解雇されることも不当に冷遇されることもない組織は、大きな仕事にピッタリの場 です。 

「関係」には最低 2 つの主体が必要です。つまり 2 つ以上の関係ある主体が存在する場は組織 です。組織だけが関係性をハンドリングし、集合知性を扱って未来から到着する場となり得ます。 読書などの経験に裏打ちされた豊かな地味のある、想像して創造する出会いの場を創りだすこと は、時間はかかりますが誰にでもできる簡単なことです。 

しかし、どれだけ時間がかかるかハッキリしないことを待つのは勇気が要りますが、皆さんは待つことに対してリスクが低い環境にあると思います。大きな物語を語る、そしてその実現可能性が比較的高い組織に居るのだと思います。 

読書を楽しんだあと、想像力を働かせて、その本の中のシナリオを使って自分の仕事に物語を 持たせてみる。そして自分の仕事に物語を読み取ることができるようになると、職場は素晴らしい学びの場になると思います。

もし、何を読んでいいのかわからない、今の自分にピッタリの本がわからないという人がいらっしゃいましたら、いつでもご相談下さい。お待ちしております。 

■■■ 百瀬編集長の編集後記■■■  

いかがでしたか?
「読書家」と称するだけあって、堅い話から柔らかい話まで高い見識をお
持ちで、和田さんからはいつもたくさんの刺激をいただいています。
単に情報量が豊富なだけではなく、情報に対する深い愛情が感じられると
ころが和田さんの素敵なところです。 
少し前にうちの息子が幼稚園でイジメに遭っているという
事態が発覚してしまいました。 
息子は日に日に元気をなくし、幼稚園に行くのも憂鬱になってきているよ
うでした。そして家内は、怒りの矛先を私に向けてきました。
「ねぇ何とかならないの~!メルマガなんか書いているくせに」 
と、やや理不尽な要求を私に突き付けてきたのです。そう言われても私に
は何ともしようがなく、ただただオロオロしているばかりでした。 
ふと和田さんが育児書を書かれていたことを思い出し、相談してみたのです。
和田さんはにっこり笑って、こうおっしゃいました。
「お子さんを信じて、ただ待つことです」 
私はこの瞬間、頭の中で色々な事柄が繋がったような気がしました。
幼稚園の説明会で、園長先生からも同じようなことを言われていたのです。 
「お子さんの成長を我慢して待ってください。子どもを育てるということ
は、実は親が育つということなんです」 
このことを家内にも話し、私たち夫婦はきちんと息子に寄り添うことにし
ました。息子の悩みを聞いて、解決策を一緒に考える。
相変わらずその子の乱暴な振る舞いは続いているようですが、息子は元気
に幼稚園に通っています。 
「育てるということは、相手を信じて待つということ」
「人を育てるということは、実は自分が育つということ」 
これは、子育てだけじゃなくて人材育成すべてに通じるんでしょうね。

 

和田晃一さん

 Courrier

 

 


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