こゑをだす

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 もともと日本人は、自然界の音も声として聞いていると言われています。
 だから、世界で日本ほど擬音が豊富な国は、ないのでしょう。
 逆にそのことが、外国語を習うときに言葉をなかなか聞き取れない原因でもあるらしい。
 

 ふけにけり 山の端近く 月さえて とをちの里に 衣打つこゑ (新古今和歌集)

 こうしてみると、何か物が出す音もこゑと言っていたようですね。
 つまり、音と声を同じくして聞いているわけです。

 では、もともとこゑって、どんな風に捉えられていたのでしょうか?

 考えられるのは、こうした自然と調和するように使われていた。
 目に見えないなにかの、訪れ(音づれ)を伝えてくれるもの
 神社の榊などは、神の訪れを知らせるためにも使われていた

 こうして、こゑは神聖な一面をもつとも考えられ
 祝詞によって、自分自身すら御祓の対象とすることを可能にしていた。

 山伏はホラ貝を吹き、けっして足を踏み入れてはならない神聖な森を確認していた。

 こゑとは、かくも多様な存在であったと思われる。

 ところが、現代はどうであろうか?科学という抽出好きな、学者たちが
 わけることがわかることだと、こゑを分けまくって、とうとう
 情報伝達の手段が言語であると、かって決めつけてしまった。

 それによって、言葉も情報伝達のためにゆがめられ、長年音の響きとして気持ちよい
 言葉たちは、いつの間にか、聞いていて不愉快な言葉の連続へと変遷した
 そして、言葉を発することは、すでに敵対しているかのような主張だけの世界になりつつある。

 我々が、こゑを発するのは、何かの要求をするときなのだろうか
 何か、うちにあるものを発散するための道具にすぎないのだろうか?

 僕たち、役者は、あまりにも無造作に声を出してきたように感じる
 もちろん、ほぼ誰にでもできる話すという行為をあらためて考える余裕などないのである
 発声練習といえば、腹式呼吸だといわんばかりに腹筋などしたり
 声がかれるまで、バカ声を出しまくったり、そんな次第であり
 内なる感情の高ぶりこそが、声だと教わった。

 そのくせ、役者ならだれでも経験することであるが、
 言葉と感情と内なる気持ちは、一致などしないのである。
 バカ声を出す訓練をしてしまった我々に、繊細な感情をつぶさずに声をはっすることなんて
 まったく無理というか、最初からつながっていないと思う。

 なにかすべてのことが、根本的に間違ってて、間違えのうえに間違えを重ねて
 なにが最初にあったのかすら、分からなくなってしまったのではないか?

 僕は、この歳になって、もういちど基礎の基礎へ立ち戻ることの楽しみを感じる
 もちろん、生活にとっては、百害あって一利なしだけど。

 それが、芸っていうことの自虐性なのかもしれない

 

落とし差し

 

 


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