所作塾
所作は、すべての動きの基礎であるにもかかわらず、幼稚園から大学まで学校で教えることは決して無く、武家奉公の無くなった現代では、親から教わる事もなくなりました。そして大人になり、文化に興味を持ち、入門するかもしれない、日舞、茶道、書道、華道、武道、美術、演劇においては、所作はもう出来ているという前提で、稽古は始まります。つまり、一度も基礎である所作を学ぶこと無く専門を学ぶことになります。諸芸の進歩は、基礎の進歩にあります。初心忘るべからずとは、進歩するべきは、基礎にあるというわけですが、その基礎が何であるのかも分からずに、時間を浪費しているのかもしれません。
私たちは、これらすべての事を身体を使って表現していますが、その身体の使い方である所作が大事で有るとは、誰も認識していません。絵を描くときの持つ筆は、明らかに手や腕でありますが、その持ち方や、手や腕の動かし方を基礎とする考え方が無くなってきているのかも知れません。演劇は、まさに身体を使う表現だと思うのですが、それでも所作を教えている養成所は無いと思います。(僕が行っている東京放送芸術は、僕が教えてますので、国内唯一所作を教えている学校です。笑)
これらの事は、精神活動が身体活動の上位にあるという概念から、精神、つまり脳を使えば、すべての表現は出来ると考えられているからだと思います。脳がそんなにまで万能であるという考え方は、科学的にはありかもしれませんが、文化的には最低な考えになります。実際、思ったおとりに、動けている人は、サイボーグ以外にいないと思います。そして、日本文化は、こうした精神で作られた科学が及ばないことを、あえて追究している文化でもあるわけですから、ちょっと変な構図になってしまうわけです。
明治維新以降、科学的(西洋的)なものが、正しいものという国是が、くまなく浸透し、西洋のスポーツという行動規範が日常生活にまでおよび、所作は崩壊の一途をたどるわけです。現在の私たちが、動きやすいように動けば、ただちに西洋のスポーツ概念に基づいた動きになります。踊るとナンバになってしまうとか、音痴だとか、テンポが合わないとか、そういう人がいれば、それは文化的な痕跡が残っている人なのかもしれません。笑
では、所作とはいったい、私たちにとって何だろうって、考えるならば、人生を真摯に受け止めるためのお作法であると考えるわけです。(未知へ踏み出すためのお作法:武士のならひのブログより)
また、日本文化の根幹は、やはり動きの中にあると思うのですが、それら動的思考法の概念が、使えるようになるには、所作を学ぶことが必須であるし、またそういう概念があるからこそ所作が出来るという事でもあるわけです。つまり、身体動作の共有は、すなわち思考概念の共有でもあり、あうんの呼吸とは、そうした共有性のなかから生まれるのかも知れません。
問題点
明らかに問題であるのは、我々には権威がないということです。知識を欲する人たちは、その内容よりも権威を得たいと思うのです。よく分かります。女子高生が好きな人は、その女性が魅力的なのではなく、女子高生というブランドが欲しいだけみたいな(例えが貧困ですみません)。つまり、有名人が言えば信じるわけで、その内容は検証しないのが流儀だと思われます。ですから、もう日舞で名取になったとか、武術で段を持っているとか、芝居を劇団で習いましたとか、茶道で師匠についているとか、そうした人たちは、所作が基礎ですといくら言っても、我々から学ぼうとは、決して思わないと思います。残念なことです。そうしたところで、壁にぶち当たって、藁をもすがりたいと思った人は、ここに引っかかるかもしれませんが、、そうした人か、センスのいい?人しか所作に興味を持たないと思われます。
そして、思うのです。もっと若い頃に知っていればな~~って。でも、若い人は、たぶん見向きもしないわけです。笑。人生は残酷ですね。僕もこうした事を二十歳で知っていればって、たらればで思うこともよくありますが、こればっかりはしょうがないですね。
そして、
所作塾はじめます
マナー講座では、ありませんし、礼法でもありません。着物を着て美しく動きましょうという講座は他では、多く存在しますが、それは、あくまでも結果論であり、目的ではありません。人生を真摯に受け止めるための動きの稽古になります。ですから、存在感が出来てくるかもしれません。正々堂々と人生に立ち向かうそれが、所作の本筋になります。
なんとか流とかあると思いますが、日舞にしろ茶道にしろ、武術にしろ、きっと面白いと思いますので、ちょっとの間、師匠を忘れて、取り組んでみませんか?混乱するかも知れませんが、、笑