結果論を方法論と勘違いしてしまうこと

suwa

お芝居をしていますと、よくこんなことを注意されたりします。
・もっと腰を落とせ
・腹から声を出せ
・ちゃんと集中しろ

どれも、確かにごもっともな注意あることは間違いありませんね。
でも、だからといって無理に腰を落としたり、腹から大声だしたり
やみくもに集中したりしても、あまりうまく行かなかったと思います。
なんだか辛くて、でもこれを我慢して乗り越えることが大事なんだ。
と勝手に納得して稽古したりするわけです。

でもなにか違う、そう思います。
つまりこれらは、結果論を言っているのです。
結果、腰が落ちていれば良いわけだし、
結果、腹から声が出ていれば良いのだし、
結果、集中していれば良いのです。
その結果から取り組んでも駄目ですよね?
例えば、稽古している女優さんに、演出家がこうだめ出しをしたとします。
「もっと有名な女優になれ」ってね。
いやいや、そのために、この芝居に取り組んでいるんでしょ?って
これは、さすがに間違いがわかりますね。
有名になる芝居はたぶんないと思うのですが、
よい芝居した結果、有名になることはあるわけです。

それでも、演出家はこう言うかもしれない。
「僕の創作したいことを表現してもらうのだから、結果を言って何が悪い?」
では、その過程はどうでもよいの?
「結果がよければ、問題はない。」
結果ばかり気にして、そんなに評価されることが、大切ですか?
「プロとして、お金をもらうのだから当たり前のことだ」
ここで、論点がずれるでしょう?話がややこしくなるわけです。

要するに、演出家さんたちは役者のアプローチのプロセスに対して
言うことができないし、言うべきではないと考えています。
それでも、最近では映画監督によるワークショップが増えていますが、
これは単に、すぐに使ってもらえたら嬉しいからという理由だと思います。

結果のために発言することが演出家の使命ならしょうがない
ただそれに、応えて結果だけをだすことを役者がしてしまうと、
後出しじゃんけんに勝負をいどむような状態になるわけですね。
演出家の意図を汲んだつもりで出した結果に
良いか悪いかをそのとき決められる。
合えば当たりだけど、はずれれば、かなり無残です。
だって、結果を重視し過程を無視したものは内容が薄いですから。
つまり、答え合わせに行ったのでは、間違ってたら目も当てられない。
ですから、結果はどうであれじっと過程を詰めていく、そして答えが違っても
それもありか?思わせられるようするわけですね。

ちょっと回りくどい説明になりましたが、
結果を要求されることが、人生の中で普通ですが、言われたことを
そのまま実行しても結果はえられないし、難しいでしょう。
その結果を出すために、それをどうしどのような過程を大事にするか
どう行動するのか、という変換をしないといけないわけです。

・もっと腰をおとせ
と言われて、腰を落としたらだめなんです。
どう動いたら腰は自然と落ちていくのかを考えないと
・腹から声を出せと言われて
腹から声をだしても長続きはしません。
つねに発声だけに気を遣って生活するわけではないのですから、
どういう感覚のときに腹と息がつながるのかを探さないといけません。
・もっと集中しろといわれて
集中してみても、なにかに気を取られれば集中は消えます。
動くことで集中が出来てこなければ、いけないのです。
集中が深まるような事を探さないといけないのです。
ほんとよく学校の先生とかこういうこと言いません?まず集中しろって!笑
だから、気合いをいれて集中して勉強はじめるとその集中は崩れるから
安心して眠くなるわけですね。僕は、いつもそうですが、、

要するに、結果論から考えると
時間軸を逆流するようなことをしないといけなくなるから辛いわけです。
川を上っていくような事ですね。お魚さんはできますけど。
きっと、何かおおきな代償を払っているんだと思いますよ。
やはり、水は高いところから低いところへ流れていく、それにしたがう
そうした自然な流れにのる、その様子が美しく目に映るのです。

書いてしまえば、しごく当たり前にような事ですけど。
案外、実生活のなかでもがいていることが、

こんなカラクリだったりして、、

もともと日本人の知恵は、こうした自然の流れを大切にしているので
とても参考になるわけです。

 

 

 


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