個人主義の時代の中で
世の中の風潮として、現代は個を最も大切にする時代だと思います。
ですから、それに異をとなえるような発言は、非常に神経を使うわけですが、
実際のところ、矛盾に満ちあふれたこの世の中で、多少の矛盾はいいだろうというか、
自分も含め、かなり矛盾していることに無頓着なっている面もあると思いますので、
整理するためにも、ちょっと違うことを書いてみたいと思います。
昨年は「アナと雪の女王」という映画の主題歌「Let it go~ありのままで~」
でが、ヒットしましたが、似たような映画はたくさんありまして、
映像業界の今、伝えたい映画のテーマの価値基準では、こんな感じですか?
・自分は自由でありのままでよい。
・自分のやりたいことのためなら、全てを犠牲にしてよい。
・まず自分が幸せでなければ、他人を幸せに出来ない。
・愛こそがすばらしい、愛が地球を救う。
・人生は勝負で有り、勝たなければならない。
大雑把にみますと、とても個を大切にしているのかな?
と思います。つまり個人大好き時代。
この理論からいくと、自分のやりたいことのために人殺しもOKでしょう?
そりゃだめだよって、普通言いますよ。でも、それは理論的には矛盾していますよね。
実際、映画の中では、よく人を殺しています。殺された側にフォーカスしてないだけです。
まあ、人を殺さないにしてもまわりに迷惑をかけまくってることは、多々あります。
そんな内容の映画を見て、感動して涙まで流したりします。どうして?
これは、つまりはフォーカス(観点)の問題ですね。観点を主人公においているわけです。
主人公から見た世界が全ての正しいの源になっているわけです。
ですから、このような映画を見て感動できるのだと思います。
この場合、主人公とはつまり自分の事ですね。主観の世界です。
世界の中心は自分であり、自分の周りで宇宙がまわっているわけです。
現代のいざこざや悩みや不幸せの原因がすべてここに集約されいるのでは?
と僕は最近歳を取ったせいもあるのかもしれませんが、そう感じるようになりました。
しかし客観主義全盛の時代にどうして、考え方だけ個人主義になるの?
私たちは、時計がなければ時間がわからない
カレンダーがなければ、日にちも分からない
天気予報がなければ、傘を持って良いのかも分からない
カロリー計算しなければ、食べ過ぎたかもわからない。
路を覚えない、電話番号を覚えない、論文はネットでコピペ・・・
健康診断を受けないと自分の健康状態もわからない
もう数え切れないほど、主観(個)を捨てて外部に情報をもとめています。
最近では、ドローンの普及によって俯瞰からさらに鳥瞰へ推移し
自分の得た視覚情報も捨てさって、歩いて見た景色はなにか違うと言い出しそうです。
ところが、考え方になると、とたんに主観になります。
客観的観点を情報という無機物に置き換えて、
観点という立場を剥奪してフォーカスだけは個人の方にに移行させるのです。
客観主義は、もはや情報だけにとどまり、それを判断するのは、個人主義というわけです。
冷静に考えれば、矛盾しているように思うのですが、そんな考慮すらしなくなりました。
情報というのは、経験を伴いませんので、判断材料としては難しいはずです。
かといって個人はすでに経験を回避して客観主義に身を委ねてしまっていますので
圧倒的な経験不足な状態なのです。
そんな状況下で「ありのままで~」と言われたら、それはマスコミが誘導した価値基準を
自分の価値基準だと思い込み、突き進んでしまうことにならないのか?
個人が大事、個性が大事と言いつつ。
実際の所は、考え方が画一化していく現状は変ですよね。
これは、個人の判断が個人の意志に基づくからで、観点を個人においている以上、
おのずと個性と思っているものは、社会の風潮に流される性格をもっているわけですね。
では、どうしたらよいのでしょう?もちろん問題だと感じた人限定ですが、、
そこで、伝ふプロジェクトでここみようとしているのは、集団としての感受性の体験です。
もちろん、言うのは簡単ですが、なかなか難しい問題です・・・
これまで集団を重んじる考えはそのまま戦争に繋がると敬遠されてきましたが、
現状のような個人主義でも結局の所、戦争は回避されていません。
集団としての狂気はむしろ、個人主義のなれの果てなのかも知れません。
現代社会で小さな、いざこざが多いのはすべて個人主義から来ている問題だと思うのです。
古来日本人の智恵として残された言葉の数々をみても分かるように
現在のような個人主義を賛美するような言葉を見つけるのは難しいはずです。
自分の命より大切なものを見つけたときに腹がすわるといいます。
全ての芸道に於いて自分を無にすることを勧めています。
自分ができることを探すよりも、自分がしてはいけないことを重んじるべきです。
集団としての感受性のない人間が個を磨いても孤独になるだけです。
個に固執すればすぐに自分の才能という壁につきあたります。
これらは、道徳的観点から、人を戒めるためにある言葉と勘違いされやすいのですが、
すべて個性を活かすための技術的な方法論を言っているのではないでしょうか?
観点を個人主義に置いて、欲求だけに羅針盤を合わせて進むやり方よりも
観点を自分からはずして、自分の意ではないものに従ったとき
初めて、しめしあわせに感謝できる環境と、
生きるというエネルギーに満ちた活動が見えてきて
その中に自分の個性が見えてくるはずだと思うのです。
そう、自分はひとりで生きているのではなく、みんなのお陰で生きているんだと
実感できる瞬間が訪れるのだと思います。
そしてその時、初めて技の取り組みの第一歩をが始まるのだと思うのです。