コンセプト Concept

理念

ike
「役者というのは、見に来てくれたお客様に何かを伝えることが仕事だ」
今まで、漠然と勝手にそう思い込んでいました。
ですけれど、日本の文化や芸能に長く接していると、
いつのまにか、それだけではないなと感じるようになりました。
伝えるという思いや行為は、強すぎると一方的な作用になります。
その事自体は、決して悪い事では無いと思うのですが、やはり行きすぎてしまうと
伝える側と、受ける側にはっきりとした壁を作ってしまうようです。
この壁は、どんどん強力になってくようです。
さらに伝えるという行為が節度を失ってしまうと、ときには説教であったり、
価値判断の押しつけであったり、事の善悪にまで干渉しようとしてきます。
こうなると、受け取り側(観客)を操作することが仕事だと勘違いをしてしまい、
嘘をついたり、騙したりと手段を選ばなくなっていきます。
新しく生み出される技術は、そのほとんどが人を騙すための技術になってしまい、
嘘に嘘を重ねて、最後は何が本当なのかも分からなってしまいます。
そして、行き着くところで突然思うのです。「こんなの信用できない」と
いや、もうすでに誰も信用してないのかもしれません。
自分たちで、作り上げてしまったたくさんの壁、この壁の向こう側はもう信用できないのです。
そして、この失った信用を別のもので代用しようとしています。
経済効果とか、契約だとか、科学的根拠とか、大義名分とか、正義のためだとか、
なにかを人質にとって穴を埋めようとしているのです。
しかしこのようなやり方では、文化的活動は苦しいだろうと思ったわけです。
つまりは、原点回帰になるわけですけど、
相互に信用し信頼し合える人間関係をまずベースにしたいと思ったわけです。
そして、言葉の綾ではありますが、
それには伝えることよりも、伝ふことの方が、自然であり
人間関係に壁を作りにくいと考えたわけです。
それはたぶん、日本文化が求めていた事なのではと思っています。
では、いったい伝えずに伝ふものって、なんなのだろう?
そんなことを一緒に考えて、楽しんでくれる仲間が集まったら素敵かなと思ったわけです。

合理主義のなかで

合理化が進む中で失なわれていくものがあります。
問題は、それらがほんとうに必要のない物なのかということですけど。
例えば「幽玄」という言葉があります。古語辞典で調べると、
神秘的で奥深く、はかりしれないこと。と書かれています。
ところが、国語辞書やネットで調べますと、最初の神秘的でという言葉が無くなります。
つまり、神秘的という言葉は、淘汰されたわけです。
神秘的なものは合理主義には、合わないというわけです。

科学的根拠のないものやコントロールすることが難しかったり、
計算できないものであったり、存在理由が分からなかったりするものなど、
机上で計算や組立ができないものは、不合理であるというわけです。
そして、その結果なにが起きたかというと、
物事の曖昧さを失ったのかもしれません。

合理主義というのは、複雑なものを細分化し分類し、その中からより単純で明瞭で
分かりやすいすぐれた法則を見いだそうという考え方だと思います。
そして、その優れたパーツだけを吸い出し、
再び組み立てれば素晴らしいものができあがるという考え方です。
工場で組み立てられていく車のようなイメージなのでしょう。
これは、システムとしてとても上手く動くのだと思います。

しかし、この優れたパーツたちが、意志を持った生き物だとしたら、
はたして同じように上手くいくのでしょうか?
結局システムとしては成立しても、どこかで歪みを抱えてしまうのだと思います。
人間という生き物は、そんなに明確な存在ではないからでしょう。

解るということは、分ける事だとも言われてますが、
この解るために分けられてしまったパーツたちが、再び集まるためには
化学的に考えても、それなりのエネルギーが必要になると思います。
そのエネルギーを精神力に求めているのが現代だと思います。
ですから、精神的に疲れてしまう人が多いのでしょう。

僕は、合理主義で失われてしまった、曖昧さや不確定さが、
人々をつなげることのできる接着剤のような役割を担うのではないかと
最近考えるようになりました。
世阿弥が、説いた「幽玄」なる美に代表されるように
不確定なゆらぎや曖昧さの感覚の共有こそが
私たちが、失なってはいけないものだったのかもしれません。

一座建立

信頼や信用は、お金や権力で得ようとすると、話が二項対立になってしまいます。
結局、壁を作ることになってしまうのです。
世阿弥は、演者とお客の間には、たしかに壁があるが
それを取り除くことができるのが、「花」であると言いました。
しかし、その「花」とは何なのか、最後まではっきりとは言及していません。
つまり、「秘すれば花」だと言っているのです。
ここがポイントだと思うわけです。
*注意*ここからは僕の勝手な解釈で、かなり一般論と違います。
普通、秘するものは技であったり何か実体があって、
それを隠すことで「花」になるという
秘密主義的な意味で使われていると思います。
僕は、「花」なんてものは、最初はなにも存在してないんだと思います。
このなにも無い状態から、ある秘したものを明らかにすることなく、
演者と観客で共有することができたとき
その「無」の状態は、「花」に変わり、すばらしい共有体験ができると言っているのです。
茶道で使われる「一座建立」という言葉も同じで
主人と客人が、壁を作ることなく一つになれるのは、
究極的にそぎ落とされた空間で、そこにしか流れない何かを共有できたとき
その狭い茶室が、宇宙空間のような広がりを見せるわけです。
これを佳しとした。
実体のない、不確定な揺らいでいるもの、
つまり「幽玄」であったり「侘び」であったり「寂び」であり
これらを共有し、感覚し、経験することが、
人間の根本的存在の由来に触れ、信頼関係を築く礎となった。
これが、日本の文化の正体ではないかと思うのです。
そして一見、暗く陰鬱として感じられるこれら、「幽玄」や「侘び」や「寂び」は
共有経験としては、「花」であり「面白き」ものであり「珍しき」ものなのかもしれない。

かなり、逸脱した持論を展開してしまいましたが、
すべてを明らかにしようとする科学の試みによって失なってしまった文化を
もう一度、新しく構築するためには、まずは信頼関係が必要だと思います。
そして、この信頼関係の基礎になるのものは、感覚の共有経験ではないか
と思っているわけです。
その感覚経験の共有がおこなわれるものの正体こそが、
「伝ふ」ものではないか、というわけです。
とても、難しい取り組みになるかもしれませんが、
一座建立の可能性を模索し、試行錯誤しながらプロジェクトを進めたいと思っています。

近藤康成

 

 


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