考える身体 三浦雅士

身体教育ということ

都会の中学生や高校生だけではない。田舎でも、通学途中の小学生や中学生に会うと、たいていはジャージーの体操着のようなものを身につけて、集団でぞろぞろ歩いている。いったい誰がこの奇妙な制服を強要したのか。おそらく、身体にもっとも楽なものという基準で選ばれたに違いない。
身体の成長に、身体の動きに、もっとも楽なもの。
日本人の身体の急激な変化の背景にあるのが、このイデオロギーである。のびのびした自然な身体こそもっとも素晴らしいというイデオロギー。自然がイデオロギーであるはずがないなどと言わないでほしい。「自然に還れ」と叫んだルソーこそ、近代の最大のイデオロギーだったのである。
実際、自然な体型を保った美しい身体を持っていると思われる人を具体的に思い浮かべてみるがいい。あるがままの身体をあるがままに放っておいた人では、絶対にない。みな、たいへん努力しているのである。自然に見えるためには、たいへん努力をしなければならない。逆説である。だが、この逆説こそ人間特有のものなのだ。

国語教育と身体

教科書の末尾に付けられた「学習の手引き」のほとんどすべてが、筆者の考えを読み取ったり、主人公の考え方や生き方について考えるといったものであるであること、その繰り返しであることに気づき、困惑はやがて憤りに変わってしまった。教科書編纂者は、文学なら文学というものを決定的に誤解し、その誤解を教師に押しつけ、さらに生徒に押しつけているのではないか。
そして、この誤解が、独創性もなければ想像力もない、他人に対する思いやりもなければ、集団を組織する能力もない若い日本人を続々と生み出しているのである。
逆説である。教科書には、独創的に考える力を身につけようとか、想像力をはばたかせようといった言葉が溢れている。そしてそれに見合う近頃の文章が、文学者だけではない、自然科学者や社会科学者の著作から採用されている。にもかかわらず、生み出されるのはその正反対の生徒たちなのだ。極論すればそういうことになるが、この逆説はほぼ間違いなく、教室という場所がまったく誤解されているところから来ている。
教室というのは公の空間なのだ。晴れの場と言ってもいい。それは個人の勉強部屋とは全く違う空間、社会的空間なのである。誤解を恐れずに言ってしまうが、本音のための場所ではなく、建前のための場所なのだ。それは、呻くように本音を滲みださせる近代の文学空間の、それこそ正反対に位置する場所なのである。
そんな場所で、いったい誰が正直に、筆者の考えを読み取ったり、主人公の考え方や生き方について考えたりするだろうか。かりに読み取ったり、考えたりしても、誰がそれを公衆の面前でそのまま語ったりするだろうか。無理強いすれば、見せかけの正直さ、見せかけの素直さを習得するだけである。まったく、子供を舐めるのもいい加減にしろと言いたい。

身体の遠近法

ヘーゲル後の思想家の両極といえばマルクスとニーチェということになるが、その二人とも同じように、人間は原因と結果を取り違える動物であるという意味のことを述べているのは、面白い。もちろん、これにフロイトを加えてもいい。神経症の多くは、結果を原因のように、あるいは原因を結果のように思い込むことなのだ。
原因と結果を取り違えるとはどういうことなのかといえば、たとえば衣服とアクセサリーの関係について取り違えるというようなことである。
衣服とアクセサリーといえば、たいていの人は、衣服のが主でアクセサリーのほうが従であると思っている。だが、だからといって、衣服があって、しかるのちにアクセサリーが登場したと思ってはならないのだ。逆に、まずアクセサリーがあって、そのアクセサリーが肥大して衣服になったと思うべきなのである。
アクセサリーは寒さとも暑さとも関係ない。ただ、人間の意識にだけ関係するのである。つまり、装身具というのは人間の意識とともに古いということになる。装身具は、なぜかいつのまにか自己意識を持ってしまった人間の、原罪のようなものである。自己意識を持ってしまった人間にとって、いちばん不可解なものが自分自身の身体であっただろうとことは容易に想像がつく。自己意識を持つことのやっかいさが、そのまま身体を持つことのやっかいさへと転化してしまったと言ってもいい。その意識の表れが、アクセサリーだったというわけだ。

舞踊の心と文学の体

人間は模倣する。それが最初のコミュニケーションだが、その模倣を通して、表情を、言語を、とりわけ、たとえば微笑み語りかけるときの、その呼吸の機微のありようを獲得してゆくのである。それを中心にして、表情の、仕草の、身体所作の全体系を習得してゆく。だからこそ、言語だけではなく、表情や仕草や身体所作も、民族によって微妙に違うのだ。そして、この身体所作の全体系のエッセンスが、舞踊にほかならないのである。
文明や文化を論じる場合、一般には言語の重要性だけが指摘されるが、じつは表情や仕草を離れた言語が存在しないのである。身体を離れた言語は存在しない。それらは一体なのだ。言葉の豊かさは、その言葉が喚起する身体所作の記憶にかかっていると言っていいほどである。つまり、身体的な基盤がなければ、言語など無意味なのである。

詩と舞踊

類人猿のゴリラやチンパンジーは、人間と違って、同じことをいっせいにすることができないのだそうです。たとえば、いっせいに歩くとか、いっせいに食べるとか、そういうことができない。ただ人間だけが、そういうことができるのだそうです。群れるということと集団で行動することとは違うのだそうです。
これが人間に特殊な能力なんだということを、教わったわけですが、集団行動ができるということと、他人に憑依することができる、他のものになることができるということは、じつは同じことなのではないか。私はそう思うのです。一篇の詩が集団の心を揺さ振り、舞い手の一振りが集団の心を一つにする。これこそがじつは人間社会の起源というか、根本なのではないか。

以前、自我の起源ということを考えておりましたとき、人間の自我というものは集団から始まったのではないかと思っておりました。つまり、個人という感情、個人という心のあり方というのはずいぶん新しいものであって、大昔はただ共同体の意思のようなものがあって、それが自我の代わりをしていた。それが部族とか家族とか個人とかへと降りてきて、近代の個人にまでいたる。そう考えていたわけです。

 

 

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