なぜ、「伝う」でなく「伝ふ」なのかといいますと~

hasu

言葉というものをどう考えるかという問題ですが、
現状では、言葉を伝達の道具として捉えられているように感じます。
少なくとも文科省は、そう考えていらっしゃるのでしょう。
伝達のツールですから、より簡単で、より短く多くの人が共有できることがよい。
じゃあ、いっそのこと英語にしてしまおうか、とまで考えているわけでして、
実際に明治時代から何度も公用語を英語にしょうとかフランス語にしようとか
議論されてきた経緯もあるようです。

ただ、言葉を文化という側面から捉えるとまた違った見え方もあるようです。
そもそも、なぜ言葉ができたのか、なぜ文字に残したのか?
考えるときりがないわけです。笑

現代仮名遣いが昭和61年1986年内閣から発表されました。
ゐとかゑとかなくしてしまって、ぢとかあまり使わないようになりました。
地震は、ちがゆれるけどじしんになるわけです。
ゐとかゑも発音が違うのに一緒にしてしまったわけです。

伝ふが伝うになったのは、もっと前ですね。
アメリカの圧力に従い吉田茂首相が承認。昭和21年1946年でしょうか?
いづれローマ字にするために伝ふを伝うに変えたようです。
(当時アメリカ大統領はトルーマン、白人至上主義者団体に所属経験があり
日本へ原爆投下命令をだした人です。)
これが現代かなづかいというわけです。
(余談ですが、アメリカは草書を学校で教えることを禁止して
おかげさまで、日本人の草書の文盲率は100%近いわけです。
元祖、言論弾圧になるのでしょうか?もちろん、国際法違反です)

要は、簡素化と表音文字への憧れから、無茶したわけです。

じゃあ、伝ふと伝うは何が違うのとうわけですが、少しややこしいです。

以下、国語の建設より。

「現代かなづかい」では、「ふ」がすべて「う」で終ってゐるが、これは語法上大きな間違ひである。本来動詞の語尾が母音で終るといふことは、日本語の原則に反するものなのである。皆「クスツヌフムユルヴ」という子音で終るやうにできてゐる。原則に反するとどうなるかと言ふと、文法の活用体系を全く破壊してしまふわけである。「言は、言ひ、言ふ、言へ」と「ハ行」に四段活用するはずのものが、「現代かなづかい」では、「言わ、言い、言う、言お」と「ワ行」と「ア行」にまたがることになって、体型がこわれる。なぜ未然形だけWといふ子音がつくのかわけが判らぬ。
「ハ行」は鉄瓶の湯気が首のところを通るやうな口の形で出ると言ってゐる。
語原学では、「ハ行」動詞の語尾をすべて「経(ふ)」と、ものが経過する音義で示されてをり、たとへば、「伝経」つたふ、「言経」いふという風。
 「現代かなづかい」には「フ」で終わる動詞がない。それで、僕は「現代かなづかい」のことを「フ抜けの仮名づかひ」と呼んでゐるのだが、「現代かなづかい」といふものは、正に腑抜けで、そんなものを喜んで使ってゐる人間も、またそれに疑問を感じない人間も腑抜けで、腰抜けだと言はれても仕方ないだろう。

という具合にかなり怒っていらっしゃいますが、「ら抜き」が問題になったことは、タイムリーに知っていますが、「ふぬけ」が問題になったことは知りませんでした。
もちそん、文部省がそんなことをわざわざ教えてくれるわけがありませんよね。笑

まあ、そんなわけでして、

「伝う」だと、やはりどこか記号的と言いますか、意図が強い感じがしますが
「伝ふ」だと、経という文字を語源にあると言われているように
意図というよりも伝わっていく道筋のような、経過を意味しているように感じたのです。
それで、伝ふプロジェクトでは、こちらの文字のがよりコンセプトに近いのではと
思いまして、現代仮名遣いには反しますが、こちらを使わせていただいてます。

そんなこと言ってもしょうが無いじゃんと言われそうですね。
古い物にしがみついていてもどんどん時代は進んでいるんだからって。

ただ、言語って意外と大切だと思うのですけど、言霊って言葉だけ流行ってますが、
伝達のツールとして、合理化を進めることで、文化からはなれた単なる記号と
して言葉を扱うことは、それなりにストレスになると思うのです。
母国語を話したり読んだりすることがストレスにつながるというのは、
ちょっと考えた方が良いような気がするのです。

 

 

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