身体言語とはなんだろう?
身体言語なんて、ちょっと大仰なタイトルを付けてしまいましたが、
例えば、相手に丁寧なお辞儀をされたとき、こちらもなぜか頭を下げたくなってしまう
そんな経験をされたことは、ありませんか?
これは、相手が気持ちがこもっていたからとかいう事よりも
なぜか先に身体がついつられて
反応してしまった。そんな感覚の経験のことですが。いかがでしょうか?
これは見たものを追体験(同調)しようと試みていると思われるのですが。
笑いや涙もつられてしまうことがありますよね。
子供が電車などが好きなのは、この大きな鉄の塊が自分と同調して
自分が大きな力を持つことが出来る感覚を持てるからではないでしょうか?
このような感覚を能力として活かすことが出来ているのが、例えば
体操の内村航平さんかもしれません。
NHKスペシャルの中で~
航平さんは、右手を体にみたてて動かす練習をする。
それがイメージトレーニングである。
航平さんの恐るべき力は、このイメージ能力。
14歳の頃、コバチという鉄棒の技をする選手の録画を見た。
「コバチをやったことなくて、ビデオで初めて見た。勝手に出来そうだなと思った。
頭でイメージして」
何回も何回も見てから、そのイメージをもったまま鉄棒に向かったら、
すぐにできてしまった。
その技をやっている様子を見ると、
いつの間にか、自分が実際に、同じ技をするイメージが浮かぶ。
目を閉じると、自分が回転していて、そのとき見える風景が見えたという。
その後、鉄棒でやってみると、できたというわけだ。
航平の脳をMRIで見ると、実際に、その事実がわかった。
ビデオで見た選手の動きをMRIを撮影しながら、イメージするという実験。
他の選手は三人称イメージでしか見ていない。
それは客観的に見るイメージで、一般的なものである。
これらの話の中には、たくさんのヒントが隠されていると思います。
ただ番組では終始、内村選手の脳や視力やバランス感覚が素晴らしい
と結論づけてそれには激しいトレーニングがあったとお決まりの内容で終始しましたが、
実はこの身体感覚はだれでも持ち合わせている才能だと思います。
これを科学がでしゃばって、脳の能力であるかのようにするので
身体感覚を逆にイメージ力と位置づけてしまうのでしょう。
これはイメージ力ではなく同調力ではないでしょうか?
見ただけで、イメージするのではなく、経験出来るということです。
日舞が出来る人が、日舞を見ると身体を動かしていたりします。
これは経験をなぞろうとしている行為だと思います。
新陰流の柳生十兵衛が、一刀流の小野忠明から夢想剣を一夜にして習得したという。
これも、見たことを同調して経験にまで高めることが出来たからではないでしょうか?
決して、脳の機能の問題ではないと思う。そして、身体感覚に頼って生きていれば
これらのことを可能にできたのではないでしょうか?
そうすれば僕の前述の古典演劇で、観客が共感するのではなく、
芝居に同調して、経験することも可能なのではないでしょうか?
これは、演劇が楽しくなりそうです。
つまり、これらの能力はある特殊な人間だけに備わったものではなく
比較的簡単に扱うことのできる能力だったのかもしれない。
だから、イメージを脳で作って、そのイメージをなぞるのではなく
見たものを直接経験しているように身体感覚で捉えるようにするわけです。
昔の芸能関係者が、見て学べと言ったのは、
入門的な意味合いではなく、とても奥の深い
高度なことを要求したものなのかもしれない。
コツは、いちいちその人から説明をされなくとも、動きをみれば
コツ自体をなぞって、習得できてしまうのでしょう。
これらを身体言語として、相手に何かを伝える手段として
とても有効であったのかもしれない。
口伝とは、まさにこの事ではないでしょうか?
脳ではなく身体で考えるとは、実にこのことだと思います。