9月, 2017年
打掛体験・ホンジュラスからのお客様~
インバウンドですね。出張の打掛体験をいたしました~。
ホンジュラスにありますコーヒー園、ウエルチェス「Welchez」から、親子で日本へいらっしゃいました。
今回は、東京ビッグサイトで開催されたSCAJ2017というコーヒーイベントに 参加が目的と言うことで、ビジネスが優先ですので、なかなか時間が取れません。それでも、せっかく日本にいらしたので、着物を体験していただこうということで、私たちが、ホテルまで出向きまして、打掛体験をしてきました。
エリサさんは、妊娠五ヶ月ということでしたので、帯の締め方に気をつけながら、着付けしました。その点、打掛になってしまえば、体型がかなりごまかせますので、良かったです。
お父様とツーショット
初めての体験で、最初は緊張しているようでしたが、どうしても観客もちらほら集まってしまうので、それもあると思いますが、最後には、「もう一度結婚したくなった」と言って笑っていました。
今回は、武井さんにスペイン語の通訳と案内をしていただきました。
本当にありがとうございました。左端ね。着付け担当は田村でした。
ウエルチェス・コーヒー園では、コーヒーの種まきから、
収穫、ローストして入れるところまで合宿して体験できるツアーがあるようです。
お金と暇があったら、楽しそうです。笑
この動画を見るだけでも、コーヒーって、こうやって出来るんだ~と興味が湧きますよ↓
ウエルチェス親子さんも冒頭に出演してます。
言葉はわかりませんが、結構見応えがありました。
第57回侍クラブ稽古会
第57回目の稽古会でした
永字八法とか、毎回やっていれば、マンネリ化してきますから
とりあえず、素早く出来るようになりたいなと思い
やってみると、分かるのは、身体は引かないとスピードが出てこないということです。
昔、受講生から、「刀は引くと先生は言いますが、槍も引くんですか?」
と聞かれて、咄嗟に分からないと言ってしまいましたが、
引きますね。つまり、これは、見た目と中身の違いなんです。
見た目には、突きという行動は、前に進みますから、押しているように見えますが、
身体の動かし方としては、引く動きの中にあって、たまたま前に進んだわけです。
たぶんですが、人を突いたことも斬った事もないので分かりませんが、
槍を突く行為を押す動きでしたら、遣り繰りが難しくなりますし、
刀で突いても、こんどは刀が相手から抜けなくなると思います。
つまり押して、突きをしたら、動作は終了してしまうわけです。
次の動作を考えれば、引くしかないのだろうと思うわけです。
上の写真は、引いて突いてますが、押すよりも明らかに剣先が安定しています。
この稽古会は、現在ひと月に一回行っていますが、そろそろ四年もすぎ、
みなさんの技術も向上したせいか、分かりませんが、
普段でも出来ることはありませんか?という質問をいただきました。
ちょっとは、考え方が変わってきたわけですね。良いことだと思います。
最初は、面白い~と言っていて、アミューズメントでしたが、笑
日常のならひ事(習慣)として、習い事が変化を遂げるというのは、理想型かもしれない。
僕は鍵っ子で、おもちゃもなくて空想好きの子どもでしたが、
この場合は、身体を想い巡らして行くわけですね。
あの、くれぐれも電車乗り過ごしたり、変質者に間違えられませんように。
気をつけてください。笑
ご参加ありがとうございました。
知識欲ってなんだろうか?
知識欲があるというのは、とてもポジティブに捉えられていますが、その実態は、どういう事なのでしょうか?もちろん、無関心な人に比べたら、月とすっぽんぐらい良いと思いますが、、笑。
ここでまた、厳しいお言葉を引用します。ハイデッガー選集ことばについての対話より
知識欲、また説明をほしがる欲求、こういうものは決してわれわれを思考する問いへ導いてくれません。知識欲というものは、いつもそれだけですでに、それ自身が虚構したところの理性とその理性の正当性を楯にとる自意識の、かくされた思い上がりです。知識欲という欲望は、思考する価値のあるものの前に立ってまちつづけることを欲しない欲望なのです。
つまり、知識欲とは、精神活動における欲望の一つであり、それ以上のものではない。知識欲は、自問自答する行為となんら関係がない、というわけです。欲望というのは、身体の要求のように感じるかもしれませんが、ほぼその精神が求めているものです。精神活動ですから、その精神が納得するかたちで、解消しようとされます。ですから、知識欲は、時に肩書きの高い人から情報を得ようとするわけです。結局のところ知識は、時の権力のただの代弁者となりうるわけです。
愛も欲望なので、そいういった面を覗かせます。3Kしか愛せないのは、まさに精神活動ですし、女子高生が好きなのも、そのブランドが欲しいだけで実態がないわけです。これは、余談です。笑
運動欲も食欲もそうですね。身体が壊れるまで、運動したり食べたり飲んだりと、その欲望は一体誰のために?少なくとも、身体のためにやっている行動ではないと思います。運動は、健康のためだから、身体を思ってやっているんだと言うかもしれません。しかし、それって案外、身体のためとは、その身体の経済価値を上げているだけなのかもしれませんよ??
話が、かなりそれましたが、この知識欲の解釈を読んでて、実は思い出したことがあります。それは、現代では、まったく否定されてしまった。そして昔は普通だった師匠が、弟子に教育する方法です。
・師匠の言うことに質問しない
・理解しないで、実行する
・見て学べ
・自問自答しろ
これらは、日本の教育がダメダメな最大の原因のように戦犯扱いをされてきていますが、でははたして、現代のが芸能文化の教育は、ほんとうに進化しているのでしょうか?江戸が終わって、そろそろ150年もたちますが、江戸時代より誇れる文化を創り出したのでしょうか?(アニメとかオタク言わないでください。それは風俗であったり経済活動ですから)
そう考えると、上記の事柄は、もう一度見直されるべき教育方法だったのではないのか?と思うのです。
知識欲にまかせて、質問して、分かったような気になって、自問自答する機会を失うことは、文化との一期一会の機会を失うことにもなりかねない訳ですし。理解しないと動けないとか、実行することのメリットが、最初から分かってないのなら、実行しないとか、時間の無駄だとか、そういった近道ばかりを追って、利便性を追求すれば、おのずと原因と結果の分かった人生になるわけです。だからどこかで、自分の自覚のないところで白けてしまってて、もっと刺激をなんて事にもなるわけです。最初から、効果が分かってることをしていれば、本当のところ白けることは明々白々で、だからそうした効果がでるまでの時間は、迅速に過ぎて欲しいと願うのです。彼女とデートしてるのに、さっさとやることやって、早く帰りたいと願っているような人と、同じような時間の過ごし方ですか?そんなに、早く人生を終わりにして結果だけを出したいと考えている人は、生きるモチベーションを、経済理論や出世欲で、実在するものでしか埋め合わせられなくなってくる。そうして、出来上がった社会は、効率よく便利で快適な世の中になったけど、なぜか豊かさを見いだせないでいる。そうは言っても、結局の所ないものねだりで、しょうがない事なのでしょう。お金と時間を得るために、捨てた豊かさは、お金と時間では、得ることが出来ないかのかもしれないという。ちょっと、ドラマチックな展開ですね。
それでも多分、おおくの普通の人は、こう思う。まずは富と地位を確保して、それからで、充分だろうって。
スティーブ・ジョブス氏もそう言ってましたっけ?
だから、その事に、対する答えはないし、僕には、そんなことに言及するほどの資格はない。
でも、少しでも気になる人がいたのなら、上の4項目は、再考の余地があることだと思います。