6月, 2017年
あるものとないもの
先日、東京フィルムセンター映画俳優専門学校へ講師として伺いました。
その時に、学生さんに現状の問題点を聞く中でこんなことがありました。
「私、特技が何もないのです。
オーディションで特技はありますか?と聞かれて、困りました」
ごく普通の悩みと言ってしまえば、それまでですが、
映画のプロデューサーである古澤さんが、僕に話してくれた。
僕たちは、無い物に付加価値を付けて資金を集めてくることが仕事なんだ。
俳優も、言ってみれば、そういう仕事でしょう?
という事を聞いて、ああ、素晴らしいことを聞いたなと思いました。
そして、この特技の問題の裏に重要な問題が隠されていることにふと気づきました。
それが、あるものとないものの問題です。
この場合、あるものは、特技ということですが、
あるものは、商品として売りやすいものです。
ですから、真っ先に特技は?と聞いてくるわけです。
それは、タレントの商品価値をわかりやすく知ろうとしているわけです。
しかし、ここに落とし穴があるわけです。
つまり、あるものが、ないものを隠すという可能性についてです。
例えば、ピアノが弾けたとします。
「ああ、ピアノが弾けるのですね、素晴らしいですね。」
とピアノが弾けるというレッテルを貼ります。それで終わり、、、?
つまり、ピアノが弾ける人が必要になるまで思い出さないかもしれない?
しかも、ピアノが弾けるという枠の中では、均一化されて個性が見えない?
特技は、その人の個性のようですが、
あるレッテルを貼られると、商品棚に並んだ工業商品のようになりかねない。
いや、そういうことじゃなくて、
ほんとうは問題はもって深いのです、実はこの問題の本質は、
人が、有るものに頼っているということ、
あるいは、有るものに頼って依存しようとしていることです。
それは、言い方を変えれば、
無いものが有るものに遮られて、本質を見失うということです。
人というものは、容姿でも体型でも、特技でも財産でも地位でもないもの。
それは、可視化できない、ある集中体なわけで、
ある何かに集中したとき、その人の姿が現れる。その姿を人は見る。
個性とは、その人の集中したときのその姿のことであり、
商品棚に並べられるようなものではない。
存在感というものは、
有る物の上に立っている姿から出されるものではなく。
無いもののうえに全重心をかけて立つことが出来たとき、
初めて生まれるてくるものなのかもしれない。
有るものの上に立った軸足は動かせなくなるが、
無い物の上に重心をおけば、軸足から斬り込むことが出来る。
これは、武道の心得で難解なところです。
もともと、日本文化は、隠すこと、隠れていることを好んだ、
満月よりも三日月、または雲にかくれていること。
竜安寺の石庭は全ての石をみることが出来ないように配置されている。
富士山も全部が見渡せることよりも、松原に隠されている姿を佳しとしてきた。
これらの価値観のなかに暗示されていることは、
「有るものが無いものの本質を隠しているのなら
何かに隠された姿の向こうに、本質を見ることができる」
という智恵なのだとおもいます。
私たちは、身体という見えるものに自分が隠されているのだから、
つまり自分自身が、自分を見えなくしてるわけです。
古人の智恵を借りるならば、自分を隠さないと自分が見えない。
だから、いっそ、その見えるものから軸足をはずし、見えないもの。
すなわち、無いものうえに軸足を置き、堂々と立って見せること。
その時、はじめて自分の姿が現れ、個性が光り出す。
つまり何か無いものに一生懸命、人生をかけて集中して、自分の姿を現すこと。
こうした姿勢が、存在感であり、個性になるのでは?と漠然を思ったわけです。
俳優とか、芸術全般に当てはまることだと思うのですが、
無いものの上に付加価値をつけていくことが、仕事であり、
また、芸術と呼んでもらえるようになるための試金石になるのだと思います。
もちろん、芸術にとどまらず、生きていく姿とは、そういう事なのかな?
とちょっと、いや無茶苦茶、偉そうな事を書いてしまった。
こんな終わり方に、かなり後悔しながらも、しょうがないから公開します。爆
※注意
決して、特技を否定しているわけでは、ありません。
単にものの例えとして、出しただけです。
特技があれば、いつでも力になるし、人生を支えて助けてくれるものです。
大いに、特技を磨きましょう。笑
追記
質問が寄せられました。
「なぜ私たちが意図的に自分を隠す必要があるのかが分からないです」
これは、簡単に説明出来ることではありませんが
強引に短くまとめました。
「これは、まず精神論でも哲学でもなく、テクニックとしてなのですが、視覚を認識に使えば、レッテル貼りに終始する。貼られたレッテルは、その人を拘束する。そして、ある物としての私は、容姿や体型、位置情報であったりしますが、そのほとんどは、死んだ時にも腐るまで、この世に残っています。つまり、実のところ生命としての身体を表していないのかも知れない。ある物としての私は、人としての概念だけなの存在を示しているだけなのかも知れないという事です。だから、そう言った既成概念としての自分を隠した時、躍動する何か得たいの知れないものに出会える可能性があるという事です。」
第54回侍クラブ稽古会 構えるということ
第54回侍クラブ稽古会でした。
身構えるということ、普段の生活の中でもある事だと思います。
何かに対して身構える場合ですが、
この何かが、想定されるわけです。
つまり、何かを想定する限り、当然ながら想定外の事が存在するわけです。
しっかり身構えれば、しっかりした想定外が出来てしまうのです。
しかも、だいたいの場合身構えた状態というのは、可動性が悪いのです。
それを知っている身体は、そんな状態に不安を感じるのです。
精神は、さらにこうした漠とした不安を消すために、意志を作動させて、
やっていることの正しさを、自分に言い聞かせて無理矢理納得させるわけです。
こうした感じを「居つき」と言うのかもしれません。
ひるがえって、ポジティブな思考をするために
人は、目標をしっかり立てることをします。
この目標は明確であればあるほど良いというのが一般常識なわけです。
これを武道でいうことろの構えだとしたら、明確な想定外を作ったわけです。
身体は不安をかんじます。一方で、精神は安定します。
想定を無くせば、身体は安心し、精神は不安になります。
だったら、無にでもなりますか?
人生の目標を立てすすむことのメリットはあります。
しかし、ここでの最大のポイントは、目標を動かないものとして、
死物として扱っている点です。
武道でも、動かないものに目標を定めてすすむのは
とても簡単な話ですが、、、それは自然現象としては稀な部類です。
目標物は、動いていることのが、自然のなかでは当たり前のことです。
つまり運命は、目標を定めて、すすむものだけのものでしょうか?
運命からやってくることを、想定していなくても大丈夫なのでしょうか?
そして、そうしてやってくる運命は、想定した運命なのでしょうか?
こうした人生のヒントを所作のなかから、見出すことが
侍クラブのやっていることの一つだったりして、、、大げさです。笑
ありがとうございました。
カンヌ映画祭 2017
第70回カンヌ映画祭 2017
審査委員長 ペドロ・アルモドバル監督 Pedro Almodovar
審査員
Maren ADE (Réalistrice, Scénariste, Productrice)
Jessica CHASTAIN (Actrice, Produce)
Fan BINGBING (Actrice, Produce)
Agnès JAOUI (Actrice, Réalistrice, Scénariste, Artist-interprète)
Park CHAN-WOOK (Réalisteur, Scénariste, Producteur)
Will SMITH (Acteur,Producteur, musicien)
Paolo SORRENTINO (Réalisteur, Scénariste)
Gabriel YARED (Compositeur de musique de film)
☆パルムドール賞 Palme d’or
The Square 2017年 スエーデン、デンマーク、アメリカ、フランス映画
監督・脚本: Ruben OSTLUND
出演:
Elisabeth MOSS,
Dominic WEST
Terry NOTARY
Claes BANG
★第70回カンヌ映画祭記念賞 Prix du 70e anniversaire
Nicole KIDMAN
☆グランプリ Grand Prix
120 Batements par minute 2016年 フランス映画
監督・脚本: Robin CAMPILLO
脚本: Phlippe MANGEOT
出演:
Nahuel PEREZ BISCAYART
Adele HAENEL
Yves HECK
Arnaud VALOIS
☆監督賞 Le Prix de la mise en scène
Sofia COPPOLA
The Bebuiled (Les proies) 2017年 アメリカ映画
出演:
Colin FARRELL
Nicole KIDMAN
Kirsten DUNST
Elle FANNING
☆脚本賞 Le Prix du Scénario(今回は2つ選ばれています)
Yorgos LANTHIMOS/ Efthimis DEER (映画:Killing of a sacred deerにて)
出演:
Colin FARRELL
Nicole KIDMAN
Lynne RAMSAY (映画:You were never really hereにて)
☆審査員賞 Le Prix de jury
Nelyubov (Loveness) 2016年 ロシア映画
監督・脚本: Andrei ZVYAGINTSEV
脚本: Oleg NEGIN
出演:
Maryana SPIVAK
Aleksey ROZIN
☆最優秀女優賞 Prix d’interprétation féminine
Diane KRUGER (映画: Aus dem nichts にて)
☆最優秀男優賞 Prix d’interpretation masculine
Joaquin PHOENIX (映画:You were never really hereにて)
短編パルムドール Qiu YANG 監督 Xiao cheng er yue
・カンヌ映画祭 2013
・カンヌ映画祭 2014
・カンヌ映画祭 2015
・カンヌ映画祭 2016
番外編として、ポスターのモデルさんの加工問題が話題になりましたね。笑
東京フィルムセンター映画俳優専門学校にてレッスン
講師のシカ・マッケンジーさんがアメリカ出張でお休みの代行授業として、
東京フィルムセンター映画俳優専門学校の2年生のクラスにお邪魔しました。
西葛西という歩いていける立地条件に、勝手にご縁を感じつつ
そしてシカさんに、感謝しつつ、普段演技ラボでやってる様なことを教えてきました!
これは、なにげにすごいことです。笑
たぶん、世界中探しても、これを教えている養成所は、ないはずです。
こうして、匙は投げられました。(世界初)
あとは、本当のところの生徒たちの感想をそっと聞いてみたいところですが、
それはまあ無理としてですね、またこんな機会があったらいいな~~。
一人でも食らいついてきて、もっと知りたいです!なんて生徒が出てきたら、、、!!
そうしたらすごいことですよね。
もし、僕が二十歳のときに知っていたら、良かったのに!という内容ですが、
それはやはり、年をとらないと分からない事もありますよね。実際問題。
難しい問題です。
つまり、かなり強引に言ってしまえば
存在感とは、無い物を有る物のように扱えるかどうかなのかなと思う。
それには、精神集中というのは、まったく適していないということ。。。
精神はあるものを扱い、身体が無い物を扱うとしたら?
そんな仮設のもと、実験の場を探しているわけです。
皆さん、可能性の塊ですから、
そんな彼らに接することができてほんとうにうれしかったです!!
ありがとうございました。
そして、授業終了後、わがままをいって記念撮影です。笑