3月, 2017年

世界が驚くニッポン 感想

2017-03-30

ここまで、経産省が作成したコンセプトブック「世界が驚くニッポン」を掲載しました。
率直な感想をいうと、学びとることがあるかと思って読みましたが、驚きました。
学びとる以前に、理解不能でした。笑
半年かけてかなりの予算をかけて作られたようですが、
日本語はこれで大丈夫ですか?あってますか?
僕は、意味の分からないところが多々ありました。
誰を対象に作られたのか不明ですが、偏差値が高くないと理解できないのなか。
むしろ、読まなくても日本の事を知っている人にしか、理解出来ないのかもしれない。
まして、外国人がこれで、理解出来るのなら、その人に会って話を聞いてみたいです。
キーワードだけ、先にピックアップして、後で、無理やり話をつなげた様な気がします。
また自分の感じている日本とかなりギャップがあり、正直落ち込みました。

知識というものは、その時の権力の象徴でもあります。
力の無い者が何を言おうと信じてもらえないのが、知識の本質です。
経産省がこう断言して作られた資料というのは、とても重い意味があると思います。
以後、これが常識として、いままでの知識が塗り替えられる事もあるでしょう。

例えば、「間」について

自然の中から「間」という感覚を見出した日本人とあります。
自然の中から見出した感覚とは、どんなものなのでしょうか?
本文の中では、対立概念や矛盾を受け入れ、ニュートラルな立場にいて、
あるがままの状態の中に意味を見出そうとした。それが、「間」の感覚である
と説いています。
これは、間というよりは、文字通り「あいだ」ってこと?
もちろん、その後に、時間や空間、固定化した物質ではなく
動的で、直感的に捉えられない感覚と、付け足してはいますが、、

僕は、これを読んでいて、根本的に違うところがあるな、と思います。
それは、説明が難しいのだけど、
つまり「間」を、概念だけで、捉えようとしていませんか?ということです。
「間」という概念は、あるが、実体はない。という立ち位置にいる。
何かと何かの「あいだ」という、概念的思考法をするならば、
AとBがあれば、「間」が存在するが、AもBも無ければ、「間」も存在しない。
という捉え方をしているような気がするのです。
逆に僕は、「間」は確かに独立して、そこに存在するものとして捉えます。
つまりAもBも、無くなってとしても「間」は残るということです。
実在するが、ただ目に見えないだけのモノである。
AもBも「間」も、同等に等しくそこに存在するものとして感覚するということです。
そうしないと、「間」の文化を理解することが難しいと思うのですが、、、。

こうした、一見理解しづらい「間」という言語に対して、
概念だけを先行させて、机上で理論を組み立ててしまうことが
文化を語るときに、どうしても精神論にあたってしまって、
その先に、進まなくなる原因の一つなのだと思うのですが、
言葉に実体(経験)がなければ、空想しかできないのです。

まとめ

いろいろと考えの違いがあるところですが、結局のところ
先程も言いましたように、知識は時の権力のあるものが正しいという
宿命を持っていますので、お偉い人が決めたとことが正論です。
つまり僕の意見は、マイノリティとして、信憑性を失うわけです。

日本政府の指針として、「間」とは、調和のためのあいだをとること
「道」は和に向かうための体系化されたプロセスである。
そして、調和の取れた状態=「和」を目指すことが、真理に通じるというわけです。

じゃあ、ニッチになってしまった我々は、どうすれば良いのかといいますと。
つまり、まさにこのことが、伝ふプロジェクトのコンセプトにもなるわけですが、
知識とは、時と共に変わりゆくものであり、時の権力の影響をうけるものです。
ですから、継承することが難しいし、継承する必要性がないものなのです。
知識として文化は、ほっといても、適当にアーカイブされるわけです。
大切なのは、知識ではないということです。
伝ふプロジェクトでは、こうした理由から、経験としての文化を大切に考え。
経験する身体を通して、継承する文化を研究し、
実践していきたいと思っているわけです。いかがでしょうか?

よろしくお願いいたします。

 

 

 

世界が驚くニッポン その3

2017-03-29

日本人の感性を表すキーワード

日本人ならではの自然観をベースにして導き出された、日本人のモノ・コト、ライフスタイルを支える感性を表すキーワード。これらのキーワードが、「日本人らしさ」とは何かを理解する手助けになるだろう。

世界が驚く、日本のキーワード5つ
Five Japanese keywords that may impress the world.
「間・道・和」という日本人独特の価値観は、日本人のライフスタイルや、ものづくり、サービスを支えている。日本のものづくりやサービスのコンセプトに表れている価値観を、5つのキーワードに分類して紹介しょう。

補足:上の図の小さい字が読めないと思いますので
日本人独特の、自然と自分を同化させる関係性から生まれた「間・道・和」の感覚。これらの感覚は、日本人のものづくりに生かされている。左の図で示した5つのキーワードは、ものづくりにおけるコンセプトを代表するもの。

日本人の感性を知るには、日本人のものづくりに触れてみよう。なぜなら、モノには日本人の伝統的な精神が宿っており、さらにそれが現代にも継承され、ものづくりが行われているからだ。もちろん、この5つのキーワードだけですべてが表されるわけではない。それぞれのキーワードから連想される、さらに細かな日本らしさを表現する言葉はたくさん挙げることができる。次ページから紹介するモノの数々を見れば、そこに集約された感性の豊かさに、きっと驚いてもらえるはずだ。

突きつめる
Pondering seriously

身体感覚を研ぎ澄ませ、心と体を一体にし、技を極め、美しさや機能性を極限まで追求する。飾り立てるのではなく、逆に余分なものをそぎ落として最小限にしながらも、細部にまでこだわり、本質的に”あるべきかたち”を導き出す。

学びとる
Learnig

自然をはじめあらゆる外部環境について、まずはあるがままを受け入れる。対立する概念や矛盾、うつろいや儚さも受け入れ、そこから新たな価値や美を見出そうとする。師から学んだ型や技を継承しながらも、終わりのない研鑽によって進化させ、また次へと継承しようとする。

合わせる
Bringing together

あらゆるものを対立させずに尊重しながら、組み合わせ、また融合させ、そのよさを引き出して守っていく。優美さとシンプルさ、規律正しさと遊び心など、異なる価値観を競合させずに共存させていく。さまざまな個性の存在を認め、アレンジも楽しむ。

源をいかす
Respecting the source

自然に感謝し、自然から与えられた素材を生かし、自らの生活に取り込んでいく。あるがままの自然の姿にさまざまな美しさを見出し、繊細な感覚を働かせて、豊かな表現につなげていく。

思いをよせる
Extending concern and affection

他に寄り添い、感謝し、他に心を預ける感覚を重視する。自然との共生によって磨かれた同化感覚によって自らの感性を豊かにし、外部環境や他者の感情を自らの中に迎え入れることで、心を通わせ、外界と自分とを調和させる。

The search for key words for 2020!
2020年に東京五輪の開催を控え、世界の目がさらに日本に集まるこのタイミングで、日本人の感性を見つめ直す。本誌で示したキーワードは一例に過ぎない。あなたの感性で世界が驚く日本の魅力を見つけ、自らの言葉で発信してほしい。

「世界が驚く日本」研究会

 

文化

 

 

 

 

 

世界が驚くニッポン その2

2017-03-27

「外なる自然」と「内なる自然」日本人のコンセプト

先進国のうちで、いまでも7割もの緑被率を保っているのは、日本だけだ。近代化の影響を受けつつも、豊かな自然が身近にあり、四季の移ろいを慈しんできた。それが、日本人独自の自然観を形成している。擬音語の多さにも、その自然観は表れている。たとえば、「雨」ひとつとっても、「ぴちょん」、「ザーザー」、「しとしと」などさまざまな表現があり、日本人は擬音を聞いただけで、情景を思い浮かべることができる。日本人の価値観のベースに自然がある。その独特の感性が、日本人を”オンリーワン”にしている。

日本人独特の自然観
Japanese people’s unique view of nature
島国であり、山国でもある日本の気候風土。日本人は、自然から、ときに台風や地震、豪雪など厳しさを与えられる一方で、四季の豊かな彩りや多彩な食文化などの恵みも享受してきた。日本人にとって自然は畏怖する対象でありながらも、同化し、共生するもの。あらゆる自然との接点において、自らの内面に”内なる自然”を見出してきた。そしてその感性は、モノ、コト、美意識や芸術、文化に影響を与えている。
たとえば、この日本人の感性がものづくりに向かえば、生まれるモノには用の美や職人技、ひとつの道を極めようとするストイックな姿勢が宿るだろう。暮らしに影響すれば、季節に感謝し、自然を愛でながら季節ごとの行事を楽しむライフスタイルが生まれる。芸術へと影響すれば、自然へ憧れから、ありのままの自然を取り入れた独自な色彩感覚が繊細な美を生み出す。無限の自然を表現するために、さまざまな形容詞が生まれ、豊かな言語表現や文学が誕生する。
これらのモノ・コト、芸術や美意識により形成された日本文化は、日本人らしい自然観をベースにしながら、いくつかの補完要素によっても成り立っている。そのひとつが日本人独特の脳の機能。象徴的なのは秋の夜長に鳴く虫の”声”に耳を傾けること。母音を多く使う言語構造から、日本語話者の脳は、母音、泣き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎ、邦楽器音などは、言語と同様に左脳で聞くという。西洋人が楽器や雑音と同じく右脳で聞いているのとは対照的だ。いわば、日本人は「自然から語り掛けられている」状況にあることから、自然をより身近に感じ、自らの感覚と同化させやすかったのだろう。
 さらに、戦乱の時代を経て、17世紀から役300年間続いた江戸時代が、争いのない平和な時代であったことも、感性を生かした文化形成に重要な要素だった。技術が上流階級に独占されることなく市民の繁栄のために使われ、季節行事が大衆に浸透し、遊び心あるれるモノが多数生まれ、多くの子どもが学校に通い「読み・書き・そろばん」という勉強の基本を身につけ、高い識字率を誇るまでになった。自然からインスピレーションを受けたデザインの家紋が広く一般家庭に取り入れられるようになったのもこの時代だ。
 過酷な試練と豊かな恵みの両方を与える二面性をもつ自然環境と同化することによって形成され、脈々と受け継がれてきた日本人独特の自然観。その感性が生み出した豊かな文化を、いま一度日本人自身が見直し、継承していきたい。

さすがにここまで、荒削りな説明で、
一方的な文化に対する考えを押しつけられると感じが悪い。
左脳右脳の理論は、もう終わった議論のような気もするし、、
文化が上流から下流へ流れた的な発想も、国家のほどこしというか、
お役所的な高見を感じますね。

豊かな四季を楽しむ季節の行事
Festivals celebrating the four different seasons
 自然を見つめ、自然と共生しようとする日本人の価値観は、自然を愛で、恵みに感謝し、畏怖し祈る、といった行動を引き出した。桜が咲き誇るのは一年のうちのほんのわずかな期間。その儚さも含めて美と感じ、「花見」と称して愛でるのが日本人だ。「桃の節句」と呼ばれる雛祭りは、子どもの健やかな成長への祈りが込められた行事。これらの季節の行事はもともと貴族の遊びや宮中行事として行われていたが、江戸時代に庶民に広まったもの。その伝統は現代まで受け継がれ、地域によりかたちを変えながらも、共通行事として日本全国で行われている。

自然をモチーフにした独特の色彩感覚
Unique sense of color based on a motif of nature.
「自分と自然を同化させる」とうい自然観をもつ日本人は、自然界の色彩を”ありのまま”受け入れた。日本の伝統色の名前はほとんどが植物や動物など自然界にあるもの。色は絶対的なものではなく、陽の当たり方などによってゆらぎがあるものとし、約300色の伝統色を言語で補いながら、さまざまな美を表現した。平安時代の十二単に使われた重ねの色目は。自然界の色の組み合わせがお手本になっている。季節に合わせて身にまとうことが美とされ、また教養とされていた。

虫の”声”が聞こえる日本人
Listening to the “voice” of insects
日本語には自然に対する形容詞や擬態語・擬音語が多数存在し、日本人の自然観を表す豊かな言語表現を生み出している。これは世界でも類を見ないほど母音を多く使う言語である日本語を話すことで、自然界の音を、まるで言語を聞くかのように処理する脳構造になっているからだ。たとえば「虫の音」を音楽や機械音、雑音などと同じように右脳で聞く外国人に対し、日本語話者は左脳で聞く。音ではなく「声」としてとらえる独特の脳構造が、自然の変化に耳を傾けさせ、豊かな表現につながった。

家紋にも自然をデザイン
Natural element designed into family crests.
 上流階級だけでなく、一般庶民も一家にひとつの家紋をもつようになったのが江戸時代のこと。家ごとに異なるデザインは実に数千種類以上にも及ぶが、中でも圧倒的に多いのが自然をモチーフにしたもの。古代から自然を身近にとらえ、自らを同化させてきた日本人にとって、表現のインスピレーションを自然から得やすいのは当然のこと。植物や動物はもちろん、風や雲、太陽や月といった自然もデザインに落とし込み、それぞれ個性を出していた。

自然観が間の感覚を生み出した
The Japanese concept of nature produced the idea of ma.

 日本人の自然観は、日本古来の宗教である神道を生み出した。「八百万の神」への信仰、いわゆるアニミズムである。さらに、仏教の伝来とともに、「この世に変わらないものなどない」という無常観が生まれ、禅の思想などに受け継がれてきた。そんな中で、対立概念や矛盾を受け入れ、ニュートラルな立場にいて、あるがままの状態の中に意味を見出そうとした。それが、「間」の感覚である。
 時間、空間はもちろん、人のことも「人間」と表現するように、「間」のないものは存在しない。「間」は、固定化した物質ではなく、動的で、直感的にしか捉えられない。現代の日本人にも理解しづらくなった感覚だが、実は「間」こそが、伝統的な美意識、美術へ、深い影響を与えている。たとえば「粋」とは、上品でも下品でも、派手でも地味でもない、中間を指す。日本画の「余白の美」、茶道などの「不足の美」は、あえて完璧にし過ぎず、受け手が想像するスペースを残しているように、「間」の感覚が日本伝統の美意識をつくり出した。さらにそれが、庭を箱庭に、植物を盆栽に、料理は弁当に詰める「縮み志向」などの特異な文化につながったのだ。

間から道を見い出し、和を成す
Finding a way to create harmony from ma.
精神を磨き、身体感覚を整え、心と体と環境をつなげ、合理的な体の使い方を覚えていく・・・・。住環境、衣服、道具、作法といった文化は、それらが調和し、機能するように生み出された。「和」を目指す日本人の生活感の中から、「道」が生まれたといえるだろう。

 自然の中から、「間」とうい感覚を見出した日本人。その行き先に、何を目指したのだろうか?もう一度、自然観に戻って考えてみよう。西洋の近代合理主義にとって、自然とは外敵であると同時に、文明を生み出し、生活を発展させるための材料であり資源、つまり「手段」であったとされる。対して日本人は、自然を「もっとも理にかなった、調和のとれた状態」とみなした。つまり自然こそが、最終的に到達すべき「目標」と考えたのだ。自然を究極の目標とした、調和のとれた状態のことを、日本人は「和」と呼んだ。約1400年前、日本の政治の礎を築いた聖徳太子も、「和を以て貴しとなす」と説いている。日本人は古くから、「和」を目指すことが、すべての真理に通じると考えてきたのだ。
「和」とは、すべてがひとつに調和し、まとまっている状態のことを指す。自然から「間」を見出した日本人は、心(内なる自然)、環境(外にある自然)、体をひとつにし、「和」を成そうと努めてきた。そして、その「和」の状態を、「美」と考えた。「和=美」であり、調和なき美は存在しないというのが、日本古来の美意識である。しかもしれは、無駄なものをすべてそぎ落とす中で生まれる調和=美であり、飾り立てることとは反対の価値観である。
その調和した美を目指すプロセスを、「道」と呼ぶ。美の追究の仕方はさまざまだが、武士道をはじめ、柔道、剣道、茶道、華道などの文化・芸術において、長い時間を掛け、洗練された体系が「道」である。武道で「型」が重視されるのも、そのためである。最もシンプルで調和がとれた美しい状態=「型」を覚えることが、基本なのだ。日本の武道は、単なる強さ、力の勝負ではない。だから、若くて力があっても、熟練の達人にかなわない。日本舞踊や歌舞伎といった伝統芸能でも、80歳を超えた名人が第一線で活躍し、若手では太刀打ちできない。「道」には終わりがないため、人生のピークが存在しないのだ。
この「道」の思想も、現代の日本人にとっては難解になりつつある。しかし「道」の精神は、かたちを変えながら、脈々と受け継がれている。たとえば、部活動に励む少年少女は、監督やコーチの指導のもの、懸命に練習に打ち込み、全力を心掛け、何よりも礼儀作法を教え込まれる。ここには、単純な技能向上としての訓練を超えた、「道」の精神が宿っている。その練習風景を見た外国人は、驚かずにはいられないという。日本人のDNA、無意識には、いまもなお「道」が宿っているのだ。

調和の精神と「道」の追求
Pursuit of the spirit of harmony and michi.

補足:上の図の小さい字が読めないと思いますので、
(二律背反する欲求の狭間のニュートラルな状態が、「間」。自然との同化感覚を磨いてきた日本人ならではの感覚だろう。)

「道徳観」「人の道に反する」など、人間性を表現する際に、日本人は「道」という言葉をよく用いる。「道」はもともと道教・儒教などの中国思想だが、日本人はそれを、心と身体を整え、調和した状態へと導くための価値観や行動様式として体系化してきた。
 人の感性は、自然への回帰欲求と、人工物を生み出し、自然から離れようとする欲求とがせめぎあっているといわれる。「道」とは、対立する感性をつなぎとめ、心と身体を整える価値観の体系といえるだろう。

道の思想、その最たるは職人の世界
The ultimate practice of michi can be found in the world of artisans.

補足:上の図の小さい字が読めないと思いますので、
(「型」を駆使し、独自の手法へと磨き上げ、型を壊す=「型破り」することを、「技」と呼ぶ。職人が、技術を守りながら進化させる一連の流れを、「守・破・離」と表す。

代々受け継がれてきた、限定された行程を「型」という。「型」を学び、身につけ自分のものにすることを「型にはめる」と表現する。

心と身体を調和した状態「和」へと整えるための価値観の体系が「道」。日本人特有の感性こそが「道」である。)

日本の教育現場では、スキルや知識だけでなく、礼儀や心構えなど、「道」に通じる精神が重視される。教育によって、「道」は日本社会の隅々まで浸透してきた。中でも「道」を教え育てる場が、職人の世界である。職人は、きまった「型」を習得し、独自の「技」へ磨き上げ、継承しながら進化させる。この過程そのものが、終わりのない「道」である。だから、いつまでも謙虚に自らを磨き、世代を超えて伝承し続ける。それが、モノへの独特の価値観を生み出してきた。

つづき

文化

 

世界が驚くニッポン (経産省より発表)

2017-03-24

3月8日に経産産業省から、2020年東京オリンピックに向けて、
クールジャパン商材・サービスの根幹となる
「感性」や「価値観」を国内外に発信するためのコンセプトブックが発表されました。
ネット上では、自画自賛すぎて恥ずかしいといった意見もあるようですが、
それは、さておき経産省が文化についてまとめたというのであれば、
伝わる文化を模索する伝ふプロジェクトといたしましては、
これが国のおおまかな指針になるわけですから、勉強させて頂きます。
もちろん、経済活動から見た文化なわけですから、無理があるのは当然です。
そもそも、文化が産業と結びついて、それでも文化と言えるのか?
といったことも今回は忘れて、純粋に検討してみたいなと思います。

日本のものづくり

「道具」は、漢字で「道を具(そな)える」と書く。日本人にとっての道具は、単なるモノではなく、人に使われ続け、感性を磨くためにある。終わりのない”道”の追求・・・それが、日本の道具であり、だからこそ、手間と時間を掛け、生み出されるのだ。
The word “tool” is written in kanji as “to prepare a road”. For the Japanese, tools are no mere objects. They have been used for ages and serve to refine sensibilities. The journey of the never-ending “road” is what Japan’s tools are for, and why they are made with such time and effort.

この部分は、だいたい伝ふプロジェクトと同じ考えですね。
侍クラブでは、刀(道具?)を通じて、刀を使う人が磨かれていくるわけです。
日本の道具は、基本的に使う側に使うための努力を要求します。
それが、人を育てるつまり所作が磨かれるように作られています。

有田、瀬戸、備前・・・日本は世界有数のうつわ大国
日本ほど、うつわの種類が豊富で、全国に産地が広がる国は、ほかにないだろう。原料である土や石、釉薬(ゆうやく)、つくり方、用途によって、その姿は千変万化する。伝統的な技術を受け継ぎながら、新たな挑戦を続ける現代作家も多い。世界が認める日本料理の盛つけの美も、このうつわがあってはじめて完成するものだ。うつわにのせて料理が完成するように、うつわもまた、使い手が使うことで完成する。この考え方は、唐津焼の「つくり手八分、使い手二分」という言葉にも残っている。「つくり手だけで完結しない」という価値観は、日本のものづくりの特徴なのだ。
Nowhere else in the world has the variety of ceramics, nor the national reach of production areas, that Japan has. Depending on the soil and stone used to make the wares, the glazes, the techniques, and the ways the products are to be used, the resulting forms are ever-changing. Many modern artisans take on new ideas while preserving traditional methods. And the world-renowned beauty of arrangement in Japanese cuisine is only possible after the tableware has been made. Just as a meal is ready to serve once it’s placed on the dish, the ceramics themselves are only complete when they are used. This philosophy is reflected in the saying of Karatsu Yaki potters: “We make 80% of the pottery, and the users complete the final 20%.” This value that the artisans need others to make their works complete is a unique approach of Japanese artisanship.

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繊細な手仕事、職人技が世界一の品質を誇る
全国各地、色とりどりの織物が伝わる中で、木綿糸を染め上げ、繊細な縞を織り出すのが唐桟織(とうざんおり)。鎖国で外来品が手に入らず、質素倹約の命が下った江戸時代、庶民でも絹の雰囲気が味わえるとあり、流行した。縞模様は、世界共通のストライプのようだが、手仕事ならではの風合いが温かい。また藍色をベースにした色合いは、原液を口に含み、味覚によって配合するという。しかも、この技術は、一子相伝。繊細な色彩感覚と技術が、大切に受け継がれている。
Tozan-ori, one of Japan’s many colorful forms of textiles, is a technique of dyeing cotton threads and weaving them into thin stripes. During the Edo Period, when Japan’s isolation kept out foreign goods and people were ordered to live simply and frugally, this technique became fashionable as it allowed even commoners to be wrapped in a luxurious silk-like feeling. The patterns appear to be universally-recognized stripes, but closer inspection reveals a warmth in texture that’s unique to handicrafts. It is also said that the indigo-based dyes were mixed in the mouth and blended using the taste buds! And the technique is kept within families, handed down to just one child. The exquisite sense of colors and techniques are inherited with love and care.

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世界に誇る燕三条の金属加工
「燕三条でつくれない金物はない」-産地の職人が誇りをもって語る、金属加工技術。「燕三条」は、新潟県の三条市と燕市を合わせた呼び名だ。小規模な企業が密集した地域で、伝統を守りつつ、多彩かつ革新的な製品を生み出している。その地盤ができたのは江戸時代で、「千年もつ」と評された和釘の鍛造で栄えた、和釘の需要が減ると、三条は刃物鍛冶の技術を高め、燕は金属加工に注力した。その三条と燕の力が合わさることで、他の追随を許さないものづくりが誕生したのだ。たとえば金属洋食器は、国内シェアは90%以上。ノーベル賞授与式の晩さん会でも使われるほど、海外での評価も高い。
“There’s no metal product that cannot be made in Tsubame-Sanjo.” This is the message behind the pride that the area’s craftspeople take in their matalworking techniques. Tsubame-Sanjo refers to the combined region of Sanjo and Tsubame cities in Niigata. Densely packed with small businesses, in prizes tradition while creating diverse and innovation new products. The foundation for this was laid during the Edo Period, when the region prospered by forging nails that were said to last 1,000 years. As demand for nails decreased, Sanjo perfected its techniques for producing knife blades while Tsubame focused on metalworking. Their combined capabilities gave birth to an unrivaled artisanship. Regional companies now supply over 90% of the Western-style cutlery used in Japan, and their work’s stellar internarional reputation led to its use at a Nobel Prize dinner.

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日本人らしさとは、自然観にあり

自然と一体化しようとする「自然観」、多様な「美意識」、そして「身体感覚」。多角的な観点から考えることで、日本人が見えてくる。
An outlook on nature that seeks oneness, a diversity of aesthetic sensibilities, and physical feelings. Reflections from different angles bring the Japanese spirit into perspective.

1.自然との共生・リスペクト
Coexistence with and respect for Mother Nature.
「日本人らしさ」とは何だろう?その核をかたちづくっているのは、日本人独特の自然観ではないだろうか。日本は、四方を海に囲まれた島国であり、山国でもある。南北に長く、四季に富んだ温暖な気候、豊富な水資源、山海の幸・・・・、自然は日本人に、さまざまな恵みを与えてきた。一方で台風、洪水、豪雪、火山、そして地震など、過酷な試練も課してきた。その中で生まれたのが、自然を畏怖しながらも、自然に自らも溶け込ませ、共生しようとする自然観だ。自然=克服すべき対象とみなした近代西洋の合理的自然観とは対照的だろう。
 また、西洋の一神教とは異なり、日本人は「八百万の神」として、すべてのものを神としてあがめた。海や川、山はもちろん、大木、岩、動物、日用品など、あらゆるものに神様が宿ると信じてきた。たとえば日本人は、鈴虫が鳴く”声”を聞くと、「秋が来た」と感じる。虫が自分に「話しかけている」と思う感覚があるからだ。つまり日本人は、人間を見るのと同じように自然を見て、感じる心をもっている。こうした自然との同化感覚が、自然の恵みに感謝し、謙虚であろうとする道徳、倫理観にもつながっている。自然と共生する中で、自分と自然を同化させ、”内なる自然”を育んできたのだ。日本に残る歴史的建造物を見れば、そういった”日本人らしい”心を、感じることができるだろう。

短くまとめないといけないからかもしれないが、かなり強引な理論の展開ですね。
分かっている人にしか分からない内容って奴ですね。笑
これで、外国の人へ説明は大丈夫なんですかね?
あらゆるものに神様が宿るのではなく、ある特定の場所に神様は宿るのだと思います。

2.美意識の多様性
A multifaceted sense of beauty.
「いき」、「余白」、「不足の美」。日本人の伝統的な美意識は、自然と自分を同化させ、調和を図る独特の自然観が生み出した、「間」の感覚にに影響されている。あるがままの状態の中に美しさや意味を見いだそうとする姿勢は、独特の美を生んだ。
たとえば「日本建築の最高峰」といわれる桂離宮は、皇族の別荘でありながら、権力を誇示するような装飾は見当たらない。風光明媚なこの場所に自然をあるがまま楽しむことこそ”美”であったからだ。
一方で、シンプルとは対極にある装飾的な美も存在している。天下人・徳川家康を祀る日光東照宮の極彩色の陽明門は、その象徴的な一例だ。対立する概念や矛盾を受け入れ、多様な美を形成することも、日本人の感性のなせるわざだろう。

間の感覚が生み出された経緯が難解で、僕にはわかりません。
多様性の美はありますが、でもそこには、ここで言うような対立も対極も矛盾も、
そういった二極概念が、そもそも存在していないのだと思います。

3.無作為の美
The beauty of randomness.
日本では、人々が日常で使うごく当たり前のものですら、美しい。その背景には、江戸約300年の平和の時代、上流階級の文化が大衆に浸透した歴史がある。それまで貴族や武士のみが有したいた文化が、平和の中で大衆にも広まった。生活への意識が高まった結果、庶民に向けた「用の美」が生まれたのだ。それは、特権階級だけを対象とした嗜好品とは異なる、日々使う中で磨かれる美しさである。アートや工芸とは区別して、「民藝」と呼ばれる。民藝品は日用品のため、大量生産でき、リーズナブル、かつ高品質。地方色豊かで、ほとんどが作者不詳(匿名)という特徴がある。民藝のつくり手は、芸術的な評価や社会的な地位よりも、「使われる」ことを目指した。だからこそ民藝には、作為的でない、純粋な美が宿っている。

無作為の美を芸術から、下ろしてしまったのですね。
僕的には、芸術の最高穂が無作為の美の様な気がしていますが、、、汗

武道
Budo-Martial Arts
日本人が時計を感覚は、「呼吸」からきている。1秒、2秒と数値化できるものではなく、呼吸の長短で、時間を”感じている”のだ。「阿吽の呼吸」「息が合う」「一息つく」といった呼吸に関する言葉が多いのも、その感覚を表している。日本の武道は、その「呼吸」を基本とする。空間を制圧することが西洋の戦術であるのに対し、日本では呼吸、つまり時間を奪うことで、相手を制す。日本人は、豊かで繊細な時間感覚をもっているのだ。

武道の事は、素人なのでわかりませんが、
僕たちは、息と呼吸は、別物として扱っています。
息を合わせることはありますが、呼吸は、合わせるようにはしません。

4.日本人の身体感覚
Physical sensation of the Japanese
夏は「チリリン」という風鈴の音で涼をとり、冬は火鉢にじっと手をあて、温まる・・・・。かつての日本人は、外部の環境を変えるよりも、感覚を研ぎ澄ませ、自分の身体のほうを変えてきた。自然の環境を自らの内に”迎え入れる”ことで、自然と共生してきたといえる。
 そもそも、日本人にとっての「身体」は、単なる肉体のことではない。「身」は時間のように感覚的なもの、「体」は空間的、物質的に捉えられるものとえるだろう。たとえば、「身重」、「身内」、「身につまされる」とはいうが、「体重」、「体内」は別の意味になるし、「体につまされる」という表現はない。その「身」と「体」を調和させる文化の一つが、武道である。日本の武道は、身体を一つにまとめる動法であり、型の美しさを目指している。敵を倒す技術ではなく、感覚の美の追究なのだ。

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つづき

文化

 

 

 

 

何もない空間

2017-03-20

何もない空間(The Empty Space)とえば、ピーター・ブルックの有名な本ですが、
演劇を志す人なら一度は聞いたことがあると思います。
僕の家の本棚にもありましたから、きっと劇団で買って読めと言われたのだと思います。
すみませんが、ほとんど内容を忘れています。

なにもない空間 (晶文選書)

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何もない空間、つまりゼロからスタートし無限の可能性へ向けて創作をする。
それが、演劇の醍醐味であるというわけです。
ゼロからカオスへ(又は無限大へ)、それが表現であるということ。
舞台装置は、何もなくても構わない、なぜならお客には想像力があるから、
細部まで作り込まれたセットは、かえってお客の集中力をそぐものだというわけです。
僕のような下世話な人間は、何もない舞台を見ると、つい制作費をケチッたなと
考えてしまいますが、笑。おまけに、舞台はだいたい真っ黒で真っ暗なので、
いきなり睡魔に襲われたりします。まあそれは、冗談として、、

このゼロからスタートして、何かを足していくという発想が、
とても近代的で、西洋的で、バイタリティーを感じる考えだなと思います。
ゼロスタートは、精神的に区切りとしてはとてもすっきりします。
僕たちは、いつでも人生をリセットしてゼロからスタートできたらと、つい考えます。
新年という区切りもそうだし、なにか習い事をはじめるときの気分でもあります。
何も書かれていないキャンバスに自分の思いの丈を描く、そんな気持ちの良さですね。
おニューの制服に、おニューのランドセル。ピカピカの一年生な気分です。
ところが、ところがですね、実際はゼロからスタートって、
やってみると結構、大変なことで、難しい問題がいろいろとあるわけです。
人生は、あざなえる縄のごとく繋がっていますしね。実生活を切り離すのも大変です。
だから、舞台などはじめる時に、テンションを高めて頑張らないとスタート切れない。
つまり、陸上競技のスタートみたいな感じですね。
準備体操したり、柔軟したり、発声練習したりと、いろいろと大変です。
それでも演技する側は、良いですよ、だってそこを目標にしてきたのだから、
ところで、観客側は?
当然そこには、温度差が生まれます。つまり壁が出来たわけです。
誰も、自分をゼロにしてから、劇場にはいりませんよね?
神社なら、多少、禊ぎをして入る気持ちはあると思いますが、。。
つまり、そいういうことですね。

逆に、舞台が空っぽでないとしたら、我唯足るを知る場合ですね。
ここから舞台に何かを足していくのではなく、引いていくとしたら、どうでしょう?
歌舞伎などの舞台の装置は細部まで絵が描かれています。
これは、ピーター・ブルックに言わせれば、お客の集中力の邪魔だというわけです。
しかし、はなっから、お客に集中していることを要求しないのなら、
集中するまで、背景でも見ていて下さいということかもしれません。
こんな緩いスタートが日本の演劇なのかもしれませんね。
そして、話が進み、必要でないものを引いていく過程で、
背景は眼に止まらなくなって物語に入っていく。
カオスからゼロへ向かう演劇をし、それは観客をも巻き込み
舞台が終演を迎えた時、観客とともにゼロの状態を作る。
そのとき、新しい空気を吸い込みながら、新しいページを開いて、幕を閉じるわけです。
終わりが、すなわち即、始まりでもある。そんな、演劇は、いかがでしょうか?

一見なにもない空間をすでに満たされている空間だとする演劇。
ピーター・ブルックの本の中にも、
見えないものを表現することは、触れていますが、
見えないもの見えるようにすることが表現だと、しています。
つまり、可視化なんですけど、これだと科学と同じになってしまう。
日本は、あくまでも見えないものは見えないまま扱う。
そう、「秘すれば花」なわけです。

私たちは、スタートラインにならんで、スタートを切るのではなく
すでに、時のように流れている何かに、乗るようにして芝居をはじめるわけです。
そういう意味では、芝居は幕が開く前から、すでに始まっているわけで、
そのるつぼの中に、身を投じるように演劇はじまる。観客もそのるつぼの中に
飲み込まれていき、やがてそのるつぼは、何かを浮かび上がらせては消えていく。
浮かんでは消えていく、何かに観客は人生を垣間見つつ、禊ぎを終える。
そこには、感動はないのかもしれない、しかし有難いものを見たと感じるだろう。
より、原始的な営みなのかもしれないが、純粋に楽しいと思う。
こうした、演劇をめざして、やってみたいと思っています。

つづく

お稽古はじめるよ

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コラム

 

 

立つというイデオロギー

2017-03-05

人は立ったことによって、動物から人間となった。
そして、あらゆることが劇的に変化をした。
そんな話から始まったら収拾がつかなくなるのでしませんが、
何気なく毎日行っている、立つという行為は、
実はとても奥が深い意味のあることなのかもしれません。

その立つこのとのイデオロギーに関して、しっかり立つとはどういうことなのか?
そこには相反する二つのイデオロギーがあるように思います。

一つ目は、大地との一体化をはかり安定する立ち方
大木や高層ビルの様に、大地にしっかり根をはり、微動だにしない様に立つこと。
近年の学校教育では、こちらのイメージが強いかもしれない。

↑Yahoo画像検索より拝借。

腰を落として踏ん張るとか、大地を蹴るとか、足を地に着けるとか、
板につくとか、こうした言葉の解釈の一つ一つが、
大地との一体化を試みるある種の安定感を求めるイデオロギー。
大地を不動のものと考えて、あてにしているわけです。
サッカーの日本代表が海外での試合で負けたとき、ピッチコンディションが良くなかった。
と言い訳をしたりすることがありますが、これはまさに大地をあてにしてる証拠ですね。
つまり、不動の大地と反発(利用)する事によって力を得ようしているわけです。

二つ目は、大地と分離し、同調をはかる立ち方
僕は、以前能装束を着せていただく機会を頂き、その時の写真をあとで見て思った。
自分の感覚では、能装束を着て、お面をかぶったときなんとも言えない自分の中の
宇宙観みたいなものを感じました。ひょっとしたらうまく踊れるかも?と思わせてくれた。
そして、写真を見て思ったのが、なんだろうこの浮遊感は?

しっかり立つという固定概念が、崩れるような瞬間です。
これは、もう僕が上手いとか下手とかではなく、
能装束が表現しようとしている世界観としか思えないのです。
つまり、踏みしめるとか板につくとか、そういう言葉の意味は、
大地との一体化を目指して表現されたわけではない。
大地とはっきり分離し、大地をあてにしないで立つということ、
そうしたとき初めて、大地と同調し恵みを得られるというイデオロギーである。

日本は農耕民族であり、水田が多くある。
その水田で作業するのに大地を踏みしめては動けない

古武道である撞木の型は、現在は好まれない。
しかし、この型は大地のコンディションに左右されにくく重宝されたといわれる。

力とは、地(ち)からであり、そのために大地を蹴るような行為をしないのである。

良かったら、僕の田舎の万灯祭りの動画を見てください。
50キロもある万灯を一人で持つのですが、大地を蹴らず、バランスで持つのです。
足は、豊年を祈って、大地から救い上がるように足を返しているのがわかります。
大地からの恵みですね。

こう考えていくと、日本文化に即した立ち方は後者であり、
現在の発想は、大地が硬くしっかりた西洋的な考えなのかもしれません。

居合で有名な黒田鉄山さんの著書のなかで盛んに出てくる
浮身という言葉もこのことかもしれない。
前者的な発想で立てば、すぐに居つきが起きるのは明らかである。
なぜなら、その場で安定を図れば、もう動けないはずだからである。

武道や芸道で、必ずぶつかる。初歩的な葛藤。
腰を落として踏んばれ!馬鹿野郎、動きが遅いんだよ!
もっと力を入れろ!動きが硬くてど素人みたいだぞ!
これらは、こうしたイデオロギーの履き違えから来ているのかもしれない。
というよりは、後者的は考え方は学校教育の中には存在しないわけです。
ですから、知らないのが普通なんです。でも、ここからがスタートです。たぶん

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