2月, 2017年

王子稲荷神社の初午祭凧市

2017-02-18


王子稲荷神社の初午祭凧市にて奉納舞をさせて頂きました。
白狐衆のきつねのダンスとセットでの奉納舞です。
ありがとうございました。
今回は、初午の日が日曜日に当たりましたので、お客様もたくさんいらっしゃいました。

伝ふプロジェクトのメンバーも10名ほど集まって手伝って頂きました。
本当にありがとうございました。
当日は、終日参拝するのにもかなりの行列が出来ていました。
スタッフのみなさんには、くれぐれも列に並ばずに横から入ってねと連絡しました。笑

王子稲荷神社の前の通りには屋台がびっしり並んで、賑わっていました。
じっくりいろいろ探索したかったですね。時間が無くて残念でした~

奉納舞のあとは、境内でいろいろな人に声をかけて頂き、交流も出来ました。
白狐衆さんたちにくず餅もご馳走になりまして、美味しかったです。
ありがとうございました。

そして、当日の奉納舞の様子を動画にしました。
良かったら観てください。
曲は、つげさんの「愛しき君へ」です。曲の提供ありがとうございます。

着物ドリーマーズのサイトでは写真が違うので、こちらも観てください。

そして、二の午も奉納舞がありますので是非いらしてください。2月24日金曜日です!

 

 

第51回侍クラブ稽古会

2017-02-17

今回は居合い3段の居合女子さんが参加してくれました。
お願いして、居合の型を見せて頂きました。
かっこ良いですね。一瞬で、稽古場が引き締まります。

ありがとうございました。
あまりのインパクトに何をしたのか忘れかけていました。笑

今回も身体集中に関して、補足的にやりました。
あとは、上段に構えるときの手の上げ方の一つの工夫もやりました。
つくづく上段に構えるというのは、難しいと思います。
腕の運びと手との関係性ですね。

今回は眼を閉じて、手を上げてみました。

そして、右足重心で右足を出して斬る

ナンバは、よく重心側の足を動かして前にすすむと言いますが、
そんな簡単な話ではないですよね、でも重心をかけるなら、右限定なのかな?
といろいろ考えがめぐります。
しかし、あっという間に時間が過ぎてしまって90分は短いのかな?

ありがとうございました。
次回は4月です。少し空きますが、よろしくお願いいたします。

 

 

和装で観劇会行ってきました。

2017-02-17

NPO法人演劇倶楽部「座」さんの芝居を観に行ってきました。シアターサンモールです。
和装で観劇すると、終演後舞台で、演者さんと一緒に記念撮影が出来ます。
舞台セットがないので背景が寂しいですが、(内緒)なかなか舞台に立つことはないので、
それはそれで、なかなか、楽しいです。

和の芝居を和装で観るというコンセプトは、
もともと伝ふプロジェクトのコンセプトに沿っていまして、
特に、侍クラブと演技ラボで、同調力ということで勉強を進めていますが、
着物でやっている芝居は、着物を着て観た方がわかりやすい。どういうことかと言いますと、
身体言語、つまり所作だけで伝ふものがあるんじゃないかっていうことです。
ですから、和の芝居は和装で観れば、洋服で観た以上に理解出来ることがあるというわけです。
じゃあどんなことが分かったの?ってことは、とりあえず聞かないでくださいね。笑

今回はネットからご参加頂いた方もいらっしゃいまして、とても嬉しかったです。
終演後の飲み会には、壌晴彦さんが、飲み屋にわざわざ来てくれて、
素晴らしい声で芝居の話をしてくれました。ありがとうございました。
みんな良い声だったと感心してました。話の内容はちゃんと聞いていたのかな?

今回は殺陣師のお話で、みんなも侍クラブで、刀を扱っているので
いろいろと勉強になったと思います。
皆さん、参加していただきまして、本当にありがとうございました。

 

 

 

 

身体集中ということ

2017-02-09

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集中には、集約的集中と拡散的集中があるという話はしました。
それとは、ちょっと見方を変えた話です。

演技をしていると、舞台などはおおむね二通りのタイプの集中方法の人に出会います。
本番前に声もかけられないぐらい集中して万全の準備で出て行く人と
出番の直前まで、全く関係無い話題で盛り上がって、慌てて出て行く人です。
後者の方は、不真面目そうに感じるのですが、芝居はしっかりしていたりするのです。

僕の三味線お師匠さんだった人は、それはそれは切れ味の良い三味線でした。
でも、演奏の直前までは、オネエ言葉で、話しているのです、、それが、
演奏の「いよっ」と言った瞬間に、激しい三味線を弾き始めるのです。
僕はまだ若くて何も分かりませんでしたが、そのメリハリには、驚くばかりでした。

こうして比べれば、日本的集中法は後者だということがなんとなく分かりますね。
例えば、日本の能舞台では、公演前に準備体操もしませんし、発声練習もしません。
テンションを上げるなんてこともないと思います。
役作りに思い詰めて、ハリウッドの俳優さん達が麻薬に手を出したりするのとは、
イメージとして全然違うわけです。役作りなんてしていないのでは?と思うほどです。
そして、「いよっ」と言った瞬間に、深い集中状態をつくるのです。

これらの違いは、どういうことなのだろうか?という疑問は当然浮かんできます。
演技スタイルの違いだから、しょうがないです、では済ませたくないところですね。
若い頃は、そんなことは各自の勝手でどうでもいいやと思っていたのですけどね。

話は変わって、
僕たちは、小さい頃から、学校で、集中しなさいと先生に言われ続けてきました。
そして、その集中の仕方を教えてくれた先生は、一人もありませんでした。
つまり、集中とは各自が能力として誰でもできること、という常識があるようです。
これはどういうことかと言いますと、
つまり集中とは集中しようと思えば誰でもできること、というわけです。
(文科省がやる気が無いだけかもしれませんが、、いやそんなことはないです)
思えば出来るわけですから、これは精神集中になります。
ハリウッドにむかしあったメソッド演技というのも、方法論ですが、精神集中のようです。

精神集中は、崩れやすいので、出番の直前に話しかけられたりしたら怒ります。
そして、準備に案外時間が掛かるわけです。終わったあとの余韻も大変です。
では、「いよっ」と言った瞬間に、簡単にしかも深く入る集中とは何なのか?
これは、日本文化の特徴でもある身体集中のことなのではないでしょうか?

精神のすることは、身体集中に入るためのサポートをするだけで良いのです。
ですから、本番の直前まで馬鹿な話をしていて、
そして、「いよっ」と言えば、身体集中に入り、精神のお仕事は終わりなのです。

身体集中の良いところは、学びが出来るという事です。
精神集中でのそれは、結局のところ経験をつまないとだめな事が多いのですが、
身体集中の場合、稽古でほとんどまかなえるわけです。
(どういうことかと言いますと、武術で言えば、戦闘の経験はいらないし、
演技で言えば、人殺しの役をやるのに、人殺しの経験はいらないのです。
つまり、経験があります!というのは精神上の話ですから、身体とは関係がないのです)
じゃあ身体は何も知らないのかと言いますと、ちゃんと暗黙知があるわけです。
要は、口で語られるような経験は、戦力として考えてないわけですね。

日本文化で行われてきた集中とは、精神集中ではなく身体集中であった
ある集中は、ある型を生んだ、この型を学べば、
ある一つの集中状態を作る事が可能であった。
つまり、学校の先生が、生徒に集中しなさい!と命令すれば、
生徒は、先生どの集中に入れば良いですか?と聞いて
その型を取れば良いわけです。なんてすっきりした教育現場だ!笑

つまり演劇における集中観とは、型を再現する事から始まり、
ある型からある型へと型の移行や変化しながら、感性の発動が起きて、
それによって生じる集中観の変化が演劇的ダイナミズムとして
捉えようとしている試みのことではないでしょうか?
また、型の中には思想も含まれていて、型の文化の厚みを作ります。

例えば立つということ
立つことはどういう思想なのか?それによって
型はどう作られていくのか?

つぎにつづきます。

参考:舞台に立つということ

お稽古はじめるよ~

 

演技ラボ

 

 

 

 

話すこと聞くこと その3

2017-02-03

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演技をしていて、最大の敵は、台詞を言わないといけないことですよね?
自分の台詞に気を取られた瞬間に相手の台詞が入ってこなくなる
実際は、入ってきているのだけど、
ただのきっかけに過ぎない記号化された物になる。
こうなってしまうと、全てが段取りになってしまうわけです。

もちろん、そうならないように役者さんはいろいろ工夫しているわけです。

余談ですが、会社の会議とかで使うやり方ですが、
自分の発言をまずポストイットに書いておき提示してしまう。
こうすると外の人の意見をちゃんと聞くことが出来るようになる。
自分が何を言おうか考えていると、他人の言葉は入ってこないわけです。

これを避けるためにまずしなければならないのは、
話すことと聞くことの分離だと思います。
話すのは口だし、聞くのは耳だから違うでしょ?と考えるのは早計で
意識としては、同じ場所で、入ったり出たりしている。
なので、衝突や渋滞がおきるという現象があるわけだと思う。
例えば、人が話しているときはちゃんと聞きなさいと怒るのは、
出入り口が同じだという意識の表れだと思う。

古典芸能では、息と呼吸を分けなさいと言われる
息とは呼吸法のことではない。ここは、一息でいわれたら、
途中で息継ぎをしないということでは無いのだと思う。(本当のところは知りません)
ある集中観としての息であり実際の呼吸とは別次元の話ではないでしょうか。
息になれば、吐き吸いが同時に行えるようになる

ということは、ひょっとしたら、
聞くことと話すことは同時に行えることなのかもしれない。
もちろん、そうした場合、識別感覚として聞くのではないのだろうし
伝達のための発声をしているのではないのかもしれない。

この課題は、大変難し問題で、
演技ラボとしては、研究テーマにすえてやっていきます。
もし、解決の糸口がみえたら、ひょっとしたら
演劇の大変革になるかもしれませんね。笑

聞くとは、普通は耳を連想します。
しかし、日本では心に響く音楽よりも、身体に響く音楽が好まれました。
つまり、耳ではないのかもしれません。

悲しい話を聞いて涙するのは、普通ですが
意味もなく涙が出てくること、身体に響けば、理由はいらないのです。
そうした取り組みが、究極日本の芸能が目指していた所為なのかもしれません。

利休が切腹前に弟子に送った茶さじに書かれていた文字が「涙」です。

切腹が口惜しかったのだろうと解釈する方もいますが、
最後に弟子に伝えたかった言葉は、「涙」
それは、所作だけでなしえる究極の完成された
日本の間なのかもしれない。

研究はまだまだ、先があり夢が広がります。

つづく

お稽古はじめるよ~

演技ラボ

 

 

 

 

 

 

 

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