6月, 2016年

ドリームストアへ、集まれ

2016-06-30

shinjyuku

伝ふプロジェクトのイベント会場です

場所は、昨年と同じ歌舞伎町のドリームストアになります。2時スタートです。
歌舞伎町のゴジラに向かって突き当たりを右に曲がってすぐ右のビルです。

DSC_9392写真の左I♡歌舞伎町と書いてあるビルの3階です。
いかががしいお店もありますので、お間違いなく。

東京都新宿歌舞伎町1-14-7

喫煙は、エレベーターの前にスペースをご用意しています。
ファーストドリンクは、混雑緩和のため4種類に限定させて頂いてます。
よろしくお願いいたします。
・ビール
・カシスオレンジ
・ウーロン茶
・オレンジジュース

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当日は、福服さんによる浴衣の販売もあります。
お楽しみに!

 

 

第43回侍クラブ稽古会

2016-06-27

samurai4侍クラブでは、殺陣を教えていますが
かといって、どこの流派にも属していませんし
殺陣検定に合格するような内容はやっていません。
ですから、いかがわしいと言えば、いかがわしい事をやっています。
それでも一応、アクション検定の幹部の方に教わった事がありますので、
一通りの殺陣は知っていますが、侍クラブではあえて殺陣を自由に
楽しんでいます。

DSCN2955
茶道や華道、剣道、日本舞踊とそれぞれぶ流派は素晴らしいですし、
それこそ伝統文化の継承が行われている重要なことだと思います、。
ですが、逆に言えば流儀に反することが出来なくなります。
それに流派の大事なことを学ぶのにだいたい一生が終わります。
僕には、もうそれは無理だと思いますし手遅れですので、
もっともっと始まりの、流儀にもならないような基礎の基礎を見直してみようと
それには、流派の縛りは、必要ないだとうと思ったわけです。

DSCN2946刀をどう持ったら良いのかを各自、目をつぶって感覚を探してみました。
刀の持ち方は、普通5分もあれば教えられますが、
逆に「手の内」といって、決して教えてくれることが無い内容でもあります。
かといって、刀を持たないと殺陣が出来ませんし、
初心忘るべからずというのは、
この初歩は、無限大に進化の可能性があるといっているわけです。

この結果は、面白いことになりましたちょっと常識的でない結果が出たのですが、
それが、僕だけではなくてみんなで、わりと共有することができたのです。
これには、ビックリしました。、もちろん習慣がもう付いてしまっているので
なかなか癖は、治りませんが、これも流派があればかなわぬ所作になるわけです。

DSCN2984これは、殺陣ではありますが、実際にはないだろうな的な、
背中で相手に接触しています。
こうすると、劇場などでうるさくて相手の声が聞こえなくても
次の動き出しのタイミングが自動的に取れるわけです。芝居の嘘ですね。
でもかはす動きが、なかなか難しいようなので、取り入れてみました

DSCN2987こうすると鞘が邪魔になったりするわけですが、
これを各自工夫してもらいます。

ちょっと殺陣の教室っぽい今回でした。笑
ありがとうございました。

DSCN2993

侍クラブ

 

 

鎌倉能舞台にて、

2016-06-13

nou

味方玄さんのテアトルノウ東京公演「山姥」の事前レクチャーということで、
鎌倉能舞台にて、私、近藤がモデルとなりまして、
味方玄さんが能装束を公開で僕に着付けしてくださいました。

DSC_8757鎌倉能舞台は、長谷寺の近くにありまして、とても気持ちのよい場所です。

能装束を着けるのは初めてなのですが、
まず味方さんの着付けの手際よい動きに感心、迷いも無駄もない動きで、
帯などを締めていくスピードがとても心地よいのです。
すべてが一発で、直し無しな動きです。素晴らしい。
そして、素晴らしい山姥の出来上がりです。

IMG_4482小道具の杖も持たせて頂きました

IMG_4483また、後ろ姿も格好いいですよね。
どこか宙に浮いているようにも見えます

IMG_4493そして、横から見た感じ、いろいろな角度とか絶妙ですよね。

IMG_4495今回は、貴重な体験もさせて頂きありがとうございました。
能装束は、重いのですが、着た感じとしては、全然重くなく、
むしろ動きやすくなった感じを受けました。
誰も居なければ、いろいろと動いてみたかったです。
面を着けた視界は、想像以上に狭く、顔を正面に向けていると
まず舞台の端は確認することが出来ませんでした。
そして、気をつけないと目を閉じた時のようにふらふらしそうになりました。笑
ただ、着物の内側に小宇宙が出来上がったような感覚になりまして
世界が広がったような、そんな居心地の良さを感じました。

帰りは、3時間待ちと言われていた長谷寺に紫陽花を見に行きました。

DSC_8885すごい、人だったけど綺麗でした。
ついでに、由比ヶ浜まで歩いて散歩して
若いカップルをいっぱいみてきました。

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ありがとうございました

映画と演劇を比べてしまいますか?

2016-06-08

hana4

先日、舞台を見に行ったら、こんなことを話しているお客様がいた。
「私は映画では感動したことがあるけど、舞台を見て感動したことが一度もない」
「映画に比べて料金も高いし、面白くないことが多いよね~」って
だれもが内心思っていることかもしれませんが、、、

このことは、大問題ですよね。
これは、お客様の考え方が間違っているのか、お芝居が間違っているのか?
う~ん。。どちらにも多少の問題があるのでしょうけどね。

料金は、経済的に映画よりも安くすることは、不可能でしょう。
誰か、無料で劇場を開放してくれない限り自殺行為に近いでしょう。
そうは言っても、有名人が出ていれば、別に高くても足を運ぶわけで、
その場合映画と金額を比べる人は少ないと思うのです。
つまり、私のような無名である人が舞台に出ることがそもそも犯罪行為に近いわけで、
そういった意味で、芝居は高いと言われれば、ごもっともです、と返すしかない。
無名である以上は、お客様にお金を払ってでも来てもらうべきなのでしょう。
これは、昨今の経済理論に基づいた商業主義でいけば、そういうことでしょう。
だから、しょうがないのでお友達に頭下げて来てもらっているわけですね。

無名であることはどうしょうもないので、論点を変えてみる
例えば、音楽でCDとコンサートの金額を比べる人も少ないですよね?
なぜならそれは、金額で比べることのできない違いがあると思わせているからですね。
何が違うのか?
有名人に生で会える(この話は、もう止めましょう。笑)
臨場感が違う。迫力がある。同じファンと場を共有できる。
そもそも、CDとはアレンジが違ったりするから新鮮である。

まあ、いろいろと原因と結果がありますが、僕の持論でいきますと。

比べられたらその時点で基本的には負け戦である

映画を見るのと同じように、芝居を見せたら勝てません
椅子は、固いし寝られないし。狭いし、飲んだり食べたり出来ないし、転換があるし、
爆発したりしないし、飛ばないし、ワイヤーアクションないし。。。
映画で出来ることをごまかしながら舞台でするのではなくて
映画では出来ない舞台ならではのことをしないといけない。
舞台と映画を比べることがナンセンスだと思わせないといけない。
そして、その場に集まった人たちが、その場を共有したんだという感覚が産まれること。
同じ釜の飯を食うのではなく、同じ劇場の空気を吸ったよねってね。
これは、理想論を言っているのだろうか?
ある事件に偶然遭遇してしまった仲間のような感覚を味わえないのだろうか?

そんな可能性を夢見ながら、勝手なひとりごとでした。

 

 

 

 

 

演技ラボ お稽古日誌

2016-06-08

keiko

第7回お稽古はじめるよ~ でした。

 現代の俳優は、せりふにきっと内面の根拠を探すだろう。それだからつまらななくなる。「・・・・・」をたちまち心理描写でうめるだろ う。それでは味も素っ気もなくなる。いくら探してもそんなものはここにはない。だからたちまちしゃべれなくなる。無理してしゃべればリアリティを失う。そ こに今の役者が久保田戯曲を上演できない理由がある。
「舞台を観る眼」渡辺保

私たちは、普通に演技と言えば、与えられた台詞を解釈して、
それをどう表現するのか考えて、それを実行する。
そして、その中に何かしらのリアリティを求めて拠り所にする。
そんな感じが一般的な演技の仕方だと思いますが、
これらは全て、個人の感性に由来するわけです。
個の感性を共有することは難しいのでなるべく個を捨ててやってみたい。
そこで、間を自分で取らない、台本を解釈しない、相手を普通にみない。
まず、この三点に注意してみた。

・間を自分で取らない
どうすれば良いのか?誰かがきっかけを出すのか?
もちろん他人が出しても良いのですが、それでは煩雑になりますので、
自分でやってもらう。要は、意志を排除して間を取ってみるわけです。
この場合の意志の排除の仕方は、色々工夫しないといけないわけです。
それが、長かろうと短かろうと気にしないでやってみる。

・台本を解釈しない
これは、簡単そうで難しいのです、ここでつまずくのが、演技経験者です。
そりゃ、ずっとそうやって稽古してきてますからね。芝居した気になれるし。
例えば、好きですと言えば、感情を入れたくなるのが人情ですが、
ここをずしっと押さえて、そういう余分な感情は出ないようにしてみます。
それじゃ、台本の意味が伝わらないのでは?とかは考えないでやてみる。

・相手を普通に見ない
これは、出来ていると勘違いしがちな所ですね。
つまり役になりきるとか、そういう意味ではないようです。
ただ、ただたんに一人の個体としてみる。
だから、この人は好きな相手だとか、そういう関係性も無視するわけです。
それじゃ、人間関係が表現できないのでは?とも考えないでやってみる。

(細かいやり方に関しては、稽古場で説明しています。)

~演じる側の感想
自分の事が良いのか悪いのか分からない。
周囲の雑音は気にならないかもしれない

*間
間を自分で取ると、相手の台詞の間に集中が切れる
間を自分で取らないと相手と交流しているような感じを受ける時がある
朗読していて、苦にならない(厭きない)

*相手
個体としてみると、観ることが楽になる
接近しても、気にならない

~観る側の感想
はっきりしないが、何かが伝わってくるし、流れのような物を感じる
物語が動き出しているのが感じられる。もっと先が見たくなる
演者の意図を感じると集中が切れる感じがする
個体で人を見ると二人が近寄っても違和感を感じない
間を自然にゆだねるとまるで上手な俳優に見える

全体的には、まだ安定感がなく良いときとと悪い時が交互にある、
しかし、良いときの引き込まれる感じは、見応えがあり楽しい。
視覚的には、相手を個として見る方法がとても見やすく物語が読み取れる
聴覚的には、間を自然に任せるのは効果がすごくあると思う。

間を自分で取らない、相手の関係性で見ない、台本の解釈しないの3点は
かなり有効的な手段であることが、わかった。
あとは、このとりあえず3つをどう芝居の中で維持するのかが課題である。

課題もいろいろあがりましたが、楽しそうな方向に向かいそうな気配を感じました。

~雑感
演技でよく言われるのが、リアリティという言葉なのだが
みんなリアリティのある芝居をしたいと思ってるわけです。
しかし、そのリアリティって奴が
芝居をしているという実感を得るための拠り所だとしたら、これはまずいのだろう。
つまりそれは、武道で言うところの居つきに当たるからだ
それでは、ちゃんと動けるわけがないというのが武道の理屈なわけだ。
だから芝居をしているという実感は、少なくとも必要ないのかもしれない。
それは単に、演者の自己満足に近いものである可能性があるからだ。
今回の稽古で、演者はどう自分が見えているのか、見当もつかないと漏らした。
しかし、見ている側は、それで充分見応えがあったのも事実なのだから。

 

お稽古はじめるよ

 

 

 

伝ふプロジェクト1周年

2016-06-05

ayame

6月4日で、伝ふプロジェクトは法人化して一年になりました。
法人化と言いましても、会社らしいことはなにもしていませんが、
それでも、集まった仲間や周りの人たちの協力に支えられまして、
無事に一年過ぎたことに感謝しいてます。
徐々にではありますが、色々な変化もあり少しは成長しているのかもしれません。
さらに活気のある団体になれるよう一丸となって頑張っていきたいと思っています。

6月4日を創立記念日にしたのは、小林秀雄さんの本「無私の精神」にちなんだからです。
私たちは団体としての意志を強く持って活動するのではなく、
実行団体として「無私の精神」を大切にして行きたいと思っています。

そして、数寄屋造り方式で集団を大きくしていけたらと思っています。
ですから、どんな分野ひとでもとにかく集まって頂けたら嬉しいです。
そこから、何が出来るのか一緒に考えていきたいのです。
一人では、実現が難しいことでも、みんなで取り組めば出来ることもあります。
しかも、思いがけない新しい何かが産まれたりもします。
お気軽にお問い合わせください。

また、二年目に入りました伝ふプロジェクトを今後ともよろしくお願いいたします。

 

 

 

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