4月, 2016年

第41回侍クラブ稽古会

2016-04-27

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今回は、人数も少なめなので、動くことを重点的に行いました。
基本的には、力を抜いて動く練習をしました。
普通に考えるとどうやって、脱力して動くの?というわけですが・・
力をいれることが、筋肉を固めることだというのなら、
逆にどうやって力をいれた状態で動くことが出来るの?ということです。

筋肉に力をいれて筋肉を固くしたら、筋肉は動きません。
ですから、それでも稼働することが可能な関節に負担がかかります。

しかし脱力していれば、筋肉は柔らかいままですから、動きやすいわけです。

でもどうやって動くのかわからない?そんなことは不可能でしょう?

そう思ってしまった人は、考え方を根本的に変えてやってみる必要があります。

跪座から立ち上がるときに「よっこいしょっ」と言って息を止めて立ちますと
膝に負担がかかりますし、けっこう力を使います。
そこで、跪座から「あ~あ~~」とか言いながら息を吐いて脱力するように立ちますと
膝に負担がかからないだけでなく、割と楽に立てると思います。

まあ、そんな要領ですが、力を抜くというのは案外難しいことなので
練習が必要ですね。その内容は、ブログには書けませんので、遊びに来てください。

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あとの稽古は、いつもより相手との間合いを詰めて稽古をしました。

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間合いが近くなったら、今度はどうやって相手を強く動かすかを考えないと
いけないです。どうやったらいいのでしょう?
どのように、相手をとらえればよいのでしょうか?
次なる課題が、広がっていきます。

頑張りましょう

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侍クラブ

 

 

明日は北区赤羽の馬鹿祭り

2016-04-23

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明日はいよいよ、北区赤羽の馬鹿祭りです。
連日のようにみんなで集まって、和紙でお面を作ったり
打ち合わせをしたりしてきました。

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ちょうど、昨年の馬鹿祭りの時に川越の狐衆のかたにお声をかけて頂き、
いわば、飛び入りのような形で参加させて頂いたのですが、
そこから、ご縁を頂きまして、秋に行われた王子の夕涼みでは、
王子稲荷神社の新しく出来た鳥居を狐の嫁入り進み儀礼という形で参加し、
飛鳥山ステージで、舞までさせて頂きました。
お正月にも狐の行列で参加、二月の初午市では、王子稲荷の神楽殿にて
奉納舞と次々にお話しを頂きまして、大変お世話になりました。
そして今回、北区馬鹿祭りに正式に団体登録させ頂いての参加になりました。
ほんとうに、ありがたいことだと思っています。

また、このような話の流れのかなで、狐のお面をオリジナルで作ることになり。
今度の5月のデザインフェスタでは、このお面の販売も試みることになりました。
不思議なご縁で、こうしてなにかひとつでも形ができたことがとても面白いと思うのです。

一人一人が、やりたいことをやって、進んでいく人生も楽しいかも知れませんが、
こうして、みんなで集まって、やりたいと思って始めたことではなかったはずなのに
流れに乗ってダイナミックに展開していく人生も楽しんじゃないのかって思うのです。
もちろん、大変ですけどね。(伝ふプロジェクトのコンセプトでもあるわけです)

後になって思えば、きっと一人でやっていたなら、こうはならなかっただろうと。
感慨深く振り返って思い出せばきっと楽しいはずだと確信しています。

あ~あ、明日は楽しいお祭りになりますように!
仲間が増えていきますように~!

 

 

 

 

 

 

 

お稽古はじめるよ Vol 8

2016-04-22

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※視覚について その3※

ガラス一枚の隔たり

前回は、視覚が透過性のものを好んで進むというお話しでした。
では、ガラスはどうなのでしょうか?
ガラスは何の問題も無く、透過していくと思われます。
ですから、あってもなくても視覚的効果は変わらないはずです。

しかし、どうなんでしょうか?全く同じでしょうか?

人から聞いた話ですが、ある画家さんが、富士山の見える別荘を建てました。
部屋からも見えるように、とても大きなガラスのアトリエを作りました。
しかし、実際には部屋から富士山の絵を描くことは無かったというのです。
どうしても、外に出ていかないと描けないと感じたようです。

たった、ガラス一枚なのに、なにか圧倒的に欠落しているように感じるのです。
そんな経験をしたことはないでしょうか?
なにが違うのでしょうか?

例えば、昔の映画をみて、田中絹代さんという素晴らしい女優さんの良さは?
と聞かれれば、すらすらと箇条書き的に言えるのですが、
会ったことのある、山田五十鈴先生などは、良さを言いなさいと問われても
答えに窮します。つまり、言い表せないほどの情報量があるわけです。

この違いが、同じようにガラス一枚の中に隠されているのではないでしょうか?

このことは、科学では解釈できないし理解しづらいところでしょうね
ですから、教育の現場でタブレットで授業をしても同じように学べると
考えているわけですよね。それで合理化を図ろうとしているのです。

話がそれましたが、ではこのガラス一枚で失うものは、何なのか?
それは、きっと接触感ではないでしょうか?
視覚という題名にはしましたが、視覚の中にある接触感覚が誘導されたときはじめて、
本来の見るという行為が成立するような気がします。

見るとは、目から入ってくる情報だけではないというわけです。
(余談ですが、皮膚が色を識別できることは分かっていますし、第三の目が光を感じていることも研究されています)

「百聞は一見にしかず」ということわざがありますが、
僕は、本来、人のことを聞いてもわからないから、その人に会いなさいと
いっていることわざだと思っています。この場合の一見はもちろん見るのではなく
会うという意味です。(中国語の見は会うという意味。見るは看という字です。)

もしそう考えるのならば、視覚と言ったときに、目から入ってくる情報に重点を置けば、
見るという行為がほんとう意味では、おろそかになっていることに気づくはずです。

眼力がすごいとかいう、表現行為が一時期流行りましたが、
これは、一方的に視線を出しているだけで
入力方法としては、かなり脆弱な性質をもっているわけです。

強い意志を持って、表現方法として目線を使うのは、ありだと思いますが、
演技ラボでは、もちろんそうした表現方法としての視覚は、封印をして、
接触感を優先するような、視覚の使い方はどのような方法なのだろうか?
視覚から得られる感受性とは、どういうものなのか?
ということを考えて行こうと思っています。

つづき

お稽古はじめるよ

 

伝ふ演技ラボ

 

 

 

本部道場にて稽古

2016-04-15

doujyou

僕が身体教育研究所に行くようになって10年ぐらい経つでしょうか?
先日、とうとう本部にて稽古することを許されまして、初めての道場入りです。
昨年あたりから、雑巾がけのために入ることは許されていたのですが、
いよいよ、この歴史的な場所にて稽古できるというのは、本当に感慨が深いです。
それでも、かなりズルして時間を短縮してやっとここまでたどり着くことができました。
技術の上達よりも先に、先生と仲良くなることができたお陰です。(内緒)
僕も、もう若くないですしね。学べる事には限界がありますが、
それでも今、この瞬間にこの場にいられるのは、すごいことだと思っています。
歴史的な建物の中で、間違いなく伝説になるであろう先生に直接指導してもらえるとは!
例えて言うならば、江戸時代に吉田松陰の塾に行っていたことよりすごいことだと思うし、
勝海舟や、坂本龍馬に会うことよりも意義のある出会いだと思ってます。
かなり大げさだと思うかも知れませんが、
僕の中では、それぐらいの出来事でありますから、
僕がどれだけ喜んでいるのか、想像がつくと思います。笑

僕はもう歳ですから、事を成すには遅すぎますが、
なにか事を始めるには、まだまだ大丈夫なわけです。

稽古で勘違いしがちなのが、なにか資格をとるまでは不完全だとか
事を成すまでは、未完成だ思ってしまうことだと思います。
子供の成長のように、未完成な人間などいません
毎日がたとえ成長の途中であってもそれが完成品なのです。
一日でも稽古をすれば、一日稽古をした完成品なのです。
それだけ、人生観に響くような稽古を頑張ってすれば良いわけです。

先生曰く、一つの技術は一つの人生観をもって達成する。

まあ、そのことは別の機会においといて、
本部に入るに至って、僕の決意といたしましては、

先生の意志には、そうとう反することになるのかも知れませんが
とりえあず、演技ラボを突き詰めてみたい
間違いなくマイノリティーリポートになると思いますが
誰も手がけてないから、しょうがないです。笑
何の役にも立たないことを一生懸命やる。これコンセプトですから。

余談、先生は不図したときに、演技のことは君がやればいいじゃいかって言ったんです。
だから、いいじゃないですか?本人は、絶対忘れていると思いますが、笑

 

 

 

 

お稽古はじめるよ Vol 7

2016-04-07

sakura

※視覚について、その2※

見えないものを見ようとする視覚について
識別のために視覚を使えば、他者との差異を求め同調が難しいという話をしました。
このような行動は、私たちが日常、ついおこなってしまう習慣です。
めまぐるしく視線を動かし、細部をチェックし異常がないか探すわけです。
それは、防衛本能のひとつで必要なことなのかもしれません。
この場合明らかに視線があり、しかも焦点もあっているわけです。
つまり見えるものを見て固定された状態になっているわけです。

目線
しかし、私たちは、常にこうした見方だけをしているわけではありません。
例えば自然の景色を見たとき、私たちはちゃんと見ているようで、
実は焦点距離がつかめていません。
雲にしても空にしても、水にしても炎にしても視線が到達した後も
さらに奥が見えてしまうわけです。
つまり見る行為が停まらずに進み入るような状態になります。(行為の継続)

見る
こうしたとき私たちは、自然をただぼうっと見ていられるわけです。
とらえられない透過性のものを見つめて、やがて視線の存在が消えるわけです。
視線が消えれば、見えているものから見えていないものを見ようとして
集中が深くなっていくのではないかと思われます。
ところが、これが映画の大きなスクリーンに同じような自然が映し出された場合は、
同じような状態にはならずに視線を動かして、行為の固定化が進み、
そしてその景色にやがて見切りを付けて、それで?
と画面が変わることを期待するか、あら探しが始まるわけです。
この違いは、わかりますでしょうか?

私たち視覚の特性は、どんどん先に進みながら見えているものでは無く、
見えていないものを探し求めて集中を深めていくようにあるに思います。

つまり、細部をチェックし差異を確認するための視覚は集約的集中をつくり。
つねに新しい刺戟が無ければ行為は終了してしまい集中が切れます。
一方、キャンプファイヤーで炎をみながら炎の先を見つめる視覚は
拡散的集中をくつり行為の継続が可能な集中を作り出します。

しかし、まだやっかいな状態が日常にはあります。それは自ら光るものです。
例えば、パソコンの画面だとか、ネオンの光とかいわゆる光源ですね。
これらは、視線が向かうのではなく光の方から目に向かって情報が流れます。

パソコン私たちは、パソコンの画面に焦点を合わせているように思うかも知れませんが
実際は光っているものにたいして正確な距離は分からないのです。
それどころか、視覚を進めるまえに情報に押しやられて先に進めないわけです。
これでは、ストレスがたまるのも分かりますね。
現代のストレス社会の象徴と言っても良いかも知れません。

イルミネーションを見て綺麗だと言っているのは、ひょっとしたらただの精神活動で
身体としては、ストレスを感じているのかも知れません。
もちろん、古来から星を眺めたりしているわけですから、
一概には言えないのかも知れませんが、難しい問題ですね。

昔の日本人の色の合わせや、御簾など、半透明なものを重ねて奥行きを
楽しむ仕掛けが、いろいろなところで見てとることができます。
見えないものや、透過性なものに、躍動感を見いだして面白いと思い。
またそこから生まれる集中観を愛していたのが、何となく見えてくるわけです。
欠けているものや隠れているものを佳しとしたこころも分かってくるわけです。

現代社会における透明性は、つまりははっきり見るためのものですが、
価値観が、真逆になっているわけですね。

二つの集中の違いによる視覚の変化について説明してみました。

でも、まだ視覚についてもう少し説明しておきます

つづき

お稽古はじめるよ

 

伝ふ演技ラボ

 

 

 

 

桜花亭にてお花見会

2016-04-05

ouka

4月2日に国立オリンピック記念青少年総合センター内にあります
桜花亭を借り切りまして、お花見会を開催しました。
・お花見撮影集合写真

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・桜の見える食堂でランチ

DSC_7379・お庭にてお花見やら記念撮影

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DSC_7623

・お部屋に戻って今度は百人一首で遊ぶ

20160402133413DSC_9439*注意 ばくちをしている様子ではありません。

20160402134118DSC_9446二組に分かれて白熱の戦いが繰り広げられました。

・汗をかいた後は、お茶タイム

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おまけに古川さんによるフルートの演奏がつきます

hurukawaあまった時間でコスプレ撮影も

長い間お付き合い頂きまして、本当にありがとうございました。
また、こんなイベントを行いたいと思います

よろしくお願いいたします。

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写真協力 坂口さん

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