身体は幻 渡辺保

芸とは

踊り手の中には三人の「私」がいる。これが舞踏の芸の、いやあらゆる日本の舞台芸術における芸という方法論の基本である。
たとえば、今は亡き六代目中村歌右衛門が「京鹿子娘道成寺」の白拍子花子を踊っているとする。
第一の「私」は素顔の私である。
河村藤雄、私たちと等身大の一人の人間である。
第二の「私」は、六代目中村歌右衛門の私である。
歌右衛門という芸名は初代、二代目、三代目までは敵役のものであり、四代目でさえ立役であった。女形の名前ではなかったのである。それを女形の名前にしたのは、五代目歌右衛門と、その次男の六代目なのである。芸名の歴史の中で男性から女性へと転換できたのは、芸名の人格がすでに虚構の上に成り立つものだからである。女形の女形性という性別はその虚構の上に成り立っている。
第三の「私」は、「娘道成寺」の白拍子花子(役名)の私である。
本名、芸名、役名の三人の私を同時に見ることになる。しかもこの三人は、一応わかれているようでいて、実は微妙につながっている。三人の私といっても身体は一つ。河村藤雄の身体を土台にして六代目歌右衛門は成り立つ。したがって六代目歌右衛門は河村藤雄を担保としてはじめて成立する。白拍子花子も当然のことながら歌右衛門によってはじめて存在する。三つの私は互いに担保し合いながら成り立っているのである。
しかも私たちは、その三人を舞台に同時に見ている。
花道を出た白拍子花子は、振り袖姿の美しい娘である。しかし、観客はなんと叫ぶか。「成駒屋」とかけ声をかける。決して。「白拍子っ」とも「花子っ」ともいわない。つまりこの美しい娘が実は歌右衛門であること、つまり男性であることを証明しているのだ。
しかし、現代演劇では、役名しか存在を認められていない。たとえば、チェーホフの「桜の園」の主人公ラネーフスカヤ夫人を杉村春子が演じたとする。杉村春子は本名石山春子、れっきとした日本人である。その日本人がロシア人ラネーフスカヤ夫人になる。ここにも本名、芸名、役名が存在しているが、チェーホフのリアルな芝居では、役名の世界だけが生きていて、本名はむろん芸名も、実は日本人であることも全て忘れなければならない。ラネーフスカヤ夫人は、ドアを開けて舞台に入って来た瞬間から石山春子でも杉村春子でもなく、ラネーフスカヤ夫人その人でなければならないのである。いまかりにそれを「演技」といえば「演技」と「芸」は方法論として全く違う構造を持っている。
芸の世界では、この本名、芸名、役名という関係をあからさまに観客の目にさらしている。三人の私が舞台のうえに同時に存在している。それは歌舞伎舞踊にかぎったことではない。能も狂言も文楽も、そのほかの音楽から寄席の落語に至るまで。この構造にかわりがない。

 

身体は幻

新品価格
¥2,592から
(2015/4/18 01:06時点)

資料室

 

 

 


Copyright(c) 2013 伝ふプロジェクト All Rights Reserved.