お稽古はじめるよ Vol 8
※視覚について その3※
ガラス一枚の隔たり
前回は、視覚が透過性のものを好んで進むというお話しでした。
では、ガラスはどうなのでしょうか?
ガラスは何の問題も無く、透過していくと思われます。
ですから、あってもなくても視覚的効果は変わらないはずです。
しかし、どうなんでしょうか?全く同じでしょうか?
人から聞いた話ですが、ある画家さんが、富士山の見える別荘を建てました。
部屋からも見えるように、とても大きなガラスのアトリエを作りました。
しかし、実際には部屋から富士山の絵を描くことは無かったというのです。
どうしても、外に出ていかないと描けないと感じたようです。
たった、ガラス一枚なのに、なにか圧倒的に欠落しているように感じるのです。
そんな経験をしたことはないでしょうか?
なにが違うのでしょうか?
例えば、昔の映画をみて、田中絹代さんという素晴らしい女優さんの良さは?
と聞かれれば、すらすらと箇条書き的に言えるのですが、
会ったことのある、山田五十鈴先生などは、良さを言いなさいと問われても
答えに窮します。つまり、言い表せないほどの情報量があるわけです。
この違いが、同じようにガラス一枚の中に隠されているのではないでしょうか?
このことは、科学では解釈できないし理解しづらいところでしょうね
ですから、教育の現場でタブレットで授業をしても同じように学べると
考えているわけですよね。それで合理化を図ろうとしているのです。
話がそれましたが、ではこのガラス一枚で失うものは、何なのか?
それは、きっと接触感ではないでしょうか?
視覚という題名にはしましたが、視覚の中にある接触感覚が誘導されたときはじめて、
本来の見るという行為が成立するような気がします。
見るとは、目から入ってくる情報だけではないというわけです。
(余談ですが、皮膚が色を識別できることは分かっていますし、第三の目が光を感じていることも研究されています)
「百聞は一見にしかず」ということわざがありますが、
僕は、本来、人のことを聞いてもわからないから、その人に会いなさいと
いっていることわざだと思っています。この場合の一見はもちろん見るのではなく
会うという意味です。(中国語の見は会うという意味。見るは看という字です。)
もしそう考えるのならば、視覚と言ったときに、目から入ってくる情報に重点を置けば、
見るという行為がほんとう意味では、おろそかになっていることに気づくはずです。
眼力がすごいとかいう、表現行為が一時期流行りましたが、
これは、一方的に視線を出しているだけで
入力方法としては、かなり脆弱な性質をもっているわけです。
強い意志を持って、表現方法として目線を使うのは、ありだと思いますが、
演技ラボでは、もちろんそうした表現方法としての視覚は、封印をして、
接触感を優先するような、視覚の使い方はどのような方法なのだろうか?
視覚から得られる感受性とは、どういうものなのか?
ということを考えて行こうと思っています。