お稽古はじめるよ Vol 7

2016-04-07

sakura

※視覚について、その2※

見えないものを見ようとする視覚について
識別のために視覚を使えば、他者との差異を求め同調が難しいという話をしました。
このような行動は、私たちが日常、ついおこなってしまう習慣です。
めまぐるしく視線を動かし、細部をチェックし異常がないか探すわけです。
それは、防衛本能のひとつで必要なことなのかもしれません。
この場合明らかに視線があり、しかも焦点もあっているわけです。
つまり見えるものを見て固定された状態になっているわけです。

目線
しかし、私たちは、常にこうした見方だけをしているわけではありません。
例えば自然の景色を見たとき、私たちはちゃんと見ているようで、
実は焦点距離がつかめていません。
雲にしても空にしても、水にしても炎にしても視線が到達した後も
さらに奥が見えてしまうわけです。
つまり見る行為が停まらずに進み入るような状態になります。(行為の継続)

見る
こうしたとき私たちは、自然をただぼうっと見ていられるわけです。
とらえられない透過性のものを見つめて、やがて視線の存在が消えるわけです。
視線が消えれば、見えているものから見えていないものを見ようとして
集中が深くなっていくのではないかと思われます。
ところが、これが映画の大きなスクリーンに同じような自然が映し出された場合は、
同じような状態にはならずに視線を動かして、行為の固定化が進み、
そしてその景色にやがて見切りを付けて、それで?
と画面が変わることを期待するか、あら探しが始まるわけです。
この違いは、わかりますでしょうか?

私たち視覚の特性は、どんどん先に進みながら見えているものでは無く、
見えていないものを探し求めて集中を深めていくようにあるに思います。

つまり、細部をチェックし差異を確認するための視覚は集約的集中をつくり。
つねに新しい刺戟が無ければ行為は終了してしまい集中が切れます。
一方、キャンプファイヤーで炎をみながら炎の先を見つめる視覚は
拡散的集中をくつり行為の継続が可能な集中を作り出します。

しかし、まだやっかいな状態が日常にはあります。それは自ら光るものです。
例えば、パソコンの画面だとか、ネオンの光とかいわゆる光源ですね。
これらは、視線が向かうのではなく光の方から目に向かって情報が流れます。

パソコン私たちは、パソコンの画面に焦点を合わせているように思うかも知れませんが
実際は光っているものにたいして正確な距離は分からないのです。
それどころか、視覚を進めるまえに情報に押しやられて先に進めないわけです。
これでは、ストレスがたまるのも分かりますね。
現代のストレス社会の象徴と言っても良いかも知れません。

イルミネーションを見て綺麗だと言っているのは、ひょっとしたらただの精神活動で
身体としては、ストレスを感じているのかも知れません。
もちろん、古来から星を眺めたりしているわけですから、
一概には言えないのかも知れませんが、難しい問題ですね。

昔の日本人の色の合わせや、御簾など、半透明なものを重ねて奥行きを
楽しむ仕掛けが、いろいろなところで見てとることができます。
見えないものや、透過性なものに、躍動感を見いだして面白いと思い。
またそこから生まれる集中観を愛していたのが、何となく見えてくるわけです。
欠けているものや隠れているものを佳しとしたこころも分かってくるわけです。

現代社会における透明性は、つまりははっきり見るためのものですが、
価値観が、真逆になっているわけですね。

二つの集中の違いによる視覚の変化について説明してみました。

でも、まだ視覚についてもう少し説明しておきます

つづき

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