矛盾を内包するには?
■デュアル・ドメイン
先日亡くなった漫画家赤塚不二夫の作品に「天才!バカボン」というのがある。面白いと思う漫画やアニメが多くなかった僕にとって、印象に残る数少ない作品である。♪西から昇ったお日様が東へ沈む~に始まり、鰻の顔と尻尾を持つウナギイヌ、賛成の反対なのだというセリフは、出鱈目さの眩いばかりの陳列である。
しかし、よく考えてみると昔から伝わる童歌にも「夜明けの晩に鶴と亀が滑った」という歌詞があったり「後ろの正面」と言ってみたりしている。因みに「後ろの正面は」真後ろを意味するのであれば、「向こう(の)正面」となるはずである。国技館中継で「向こう正面」とは言っても後ろの正面とは言わない。
京都出身の出版社の代表と代官山で一杯引っ掛けていると、「京都へ行って湯豆腐喰ったり京料理を食べるのは銭の無駄ですわ。京都で旨いのはラーメンや。」と仰る。で、お奨めのラーメンは?「完璧な味のラーメンはアカン。少し不味いのがええんや。ウマまずの味にリピートすんねん。」そういえば、京都発のチェーン店「天下一品」のラーメンは3回目からはもう癖になる、と、15年前に奨められて以来リピートしていることを思い出す。
宝塚の月組公演にお招きいただき、源氏物語宇治十帖を原作にした「夢の浮橋」を観劇する。薫大将の回想シーンとして、匂宮と浮舟、柏木と女三宮の逢瀬が演じられる。先に登場している薫の運命を暗示する秘密を、見た筈のない薫の回想として描き、二組の逢瀬を重ねることで運命のフラクタル(古文風に言えば「無情」と「あはれ」)が舞台の上に、客席に立ち上がってくる。この柏木役の美翔かずきは、素晴らしい演技だったのだが、御存知のとおり宝塚には女しかいないので男役も全て女。もちろん演技上男が表象されるワケではあるが、一人格に両性が備わることになる、つまり精神的アンドロギュヌスとなるわけである。
三浦佑之が現代語訳した「古事記」と与謝野晶子の訳した「源氏物語」をあらためて併読しいているが、ここには登場する人物や神々の中に、行為や性格の矛盾が溢れている。藤壷と六条御息所が同一人物の個性を二分したものだと説いたのは高橋睦郎だが、これは柏木と薫大将もそうだろうし、古事記の神々に至っては二神で1セットになって初めて存えるワケである。所謂「独り神」はすぐに御隠れになる。
デュアル・ドメインを昔の物語は複数の人格に描くことで対応したり、源氏物語などでは誰の人格かさえも曖昧にして感情の色彩として染め抜いている。これは、ひょっとすると、そもそもモノローグとして存在したものを「物語る」ための方便として複数の人格を登場させて「ダイアローグ」させるという手法なのかもしれない。
成る程、そう解釈すると絵本「ぐりとぐら」(中川李枝子/大村百合子)が 160回を越える増版のロングセラーとなることも理解できる。つまり、大きな卵で作る黄色くて甘い匂いが漂ってきそうなカステラもさることながら、「ぐり」と「ぐら」というネズミは同一人格(鼠格?)を2匹に分けて、モノローグをダイアローグに変えたところが魅力であり、物語の原型があったわけである。ダイアローグが生まれる状態には複数のドメインが存在する、つまりデュアル・ドメインになるのである。
デザイナーの内田繁が「目に見えるモノしかデザインしなくなったから、つまらないデザインばかりが溢れている。デザイナーは目に見えないモノをこそデザインすべき」といった発言をしている。論理思考が過度に適用されると、夜明けの晩は有り得ないし、賛成の反対は不可能となり排斥される。しかし、本来そういった矛盾を私たちは個人としても、社会としても内包している筈であり、例えば愛の詩を書く人が生活者として破綻していたり、或いは、ペットの犬猫は愛玩しても牛や豚は屠殺して舌鼓を打つのはよく知られたことである。
では、どうやってこの矛盾を扱うのか?
乗り越えるのではなく、一方を選択するのでもなく、内包するにはどうしたらいいのか?そこにこそ、デザインの切り拓くべき曠野が拡がっている。