変わることとは、ユーモアの磨き時

hito

大人はみんなかめんをかぶって生きている。

仮面があったなんて、わたしにもあるのかな?
あの人にはあるのかな、ないのかな、
つけっぱなしでいたいのか、
それとも外したいという欲求があるのか、
そんな視点で周りの人をみるのも面白いかもしれない。

たくさんみたら、人間の普遍的な衝動についても納得がいく
実感が得られるかもしれない。

自分と他人は違う人間だということだ、
つまり、わかり合うなんてことはついぞなんだろうな。
できるのは、観察し続けることだけ、
自分に何かを試し、
他人が何を試しているのかをみるだけ、
つまりそこには、永遠の◯◯なんてものは存在しないのよね。

過去の自分は他人ってのも、そういう訳で。
自分さえもかわらないことはない。
今自分が信じていることは、なぜ信じていることなのか、
私は考える、でも考えない人もいる、

つまり、、自分の苦しみは最も近い人間にとってさえ、
違う人間であるという時点ですでに、
百億光年ほども遠い星のように見えるものである。
他人からみたら自分の苦しみなんてそれほどちっぽけなものであるのが
常なのだ。

おー。
つまり、わかってほしいと思うことがまずは新たな苦しみの始まりなのだ。
わかろうとするとそこには興味がわいてくる。

仕事ではそれは割と容易なのだが、
仲良くなった友達とか、家族とか、は難しい、
なんとなく、個人であることを忘れてしまうんだよね。
でも、個人を忘れたコミュニケーションからは何も、
発展的で喜ばしいものは生まれないんだ。
そこにおこるのは映画で何万回と語られてきた、よくある人間ドラマ。
新たな気づき。それだけ。

他人が愚痴をこぼすとき、または黙っているとき、
その人には、その人にとっての何か重大問題が明らかに存在していて、
きっと今日初めてあったのでなければ、
ちょっと考えればその人にとってそれがいかに重大であるかが理解できる、
というイメージはできる。

このプロセスはなかなか面白そうだ、
自分の身を守ることにもなりそうだし、
わたしなりの人間研究の発展にもなるだろうし、
きっと自分についてもなにか新たな発見があるんじゃないかと思う。

つまり、私は重大問題を抱えている、
それが重大である、と気づいた、これに気づかずになんとなく、
気持ち悪い感覚だけでいるとき、
周りが見えなくなったり、誰かに漠然と頼りたくなったりする、
しかし、人間の半分が常にこの状態であったとしてもおかしくはない。

昨日電車の中で、泣いている子供をすみに追いやってしかりつける、
怖い若いお父さんがいた。お母さんも子供うぜーみたいな感じでみていた。
そのときの子供の喚く声が忘れられないんだな。
でもそのあと、泣き止んで、親の「わがままするから、おこられるんだよ」という言葉で、
うなずく、すると親はまるでご褒美のように、彼を抱き上げる。
そのとき、彼らをみて、微笑んだ会社員の女性の目つきも忘れられない、
彼女は決して、子供の恐怖と優劣関係による歩み寄りというものに、
不信感謎抱いていなかったのだ。
つまりは、そのように育った人もいるわけで、
人間の反応というのは、常に十人十色なのである。

つまり、生まれた限り、俳優に向いていない人というのは、
本当はいなんだと思うのだ、
ただ、カメラの前でいつものことができればいいんだから。

この人間のなんでもない営みを芸術に昇華しよう、
争いを生む社会批判ではなくて、
笑いや生きる気力を与えるようなものにしようと、
考えることは、
確かにすばらしいと思う。

つまり、その目的によって、私は他人を観察し続けるべきなのだ。

観察した結果、争いを生むためではなく、
作品によって、戦慄や、新たな争いや、幻滅、不幸、を生むんじゃなくて、
第三者的な視点を面白く提示できたらなあ、と思う。
やはり、舞台に立つ人間は本物でなければならない、
醜かったりきれいだったり、、ある人にはすかれるけど、ある人には嫌われる。
そういう要素を持った人間がいなければつまらない。

あるときはすかれるけど、あるときは嫌われる、
あるときは好きだけど、あるときは嫌い。
そう思うのは当たり前だ。
それを「好き」そいうシグナルだけ送らねばならないなんて考えるから、
おかしなことになる、
「好き」というシグナル以外は怖いから絶対に受け取りません、
というふうにするから、人間嫌いになる。
好きなときも嫌いなときも、
好きなところも嫌いなところも、
すかれてるときも嫌われてるときも、
すかれてるところも、嫌われてるところも、
みんな特に、
優劣なく平等なんだとしたら、
つまり、人間同士が、決別する必要なんてないんだ。

決別するのは、互いの嫌いなところだけ、嫌いなときだけしか
見えなくなった結果。
いったいいつそういうことになるのかしら。
私だってそんな時あるなあ。

嫌われることで、自尊心が傷つき、いたたまれなくなって、行動を起こすたぐいの
人間も入れば、
嫌いになることで、同じようなことになる人もいる。
こりゃあ、面白いことだ。
嫌われても、嫌いになっても平気だけど、
好きになったり、すかれたりすると、
自尊心が傷つくなんてひとだっていると思う。
私もそういうときあった。
つまり、なんで私なんか好きなの?っていう状態。

うん、もう十分である、この嫌いと好きの議論についてはわかった。
そしたら、その後、この次のステップは何なんだろう。

何かを生み出すこと?
何かに自分から影響を与えること?

ん〜、とりあえずいい作品が作りたいから、その構想を練ることにしよう。
他人をかえるってのは、戦いだからなあ、
それはめんどくさいしいやだ。
作品の中でならいいんだけど。

作品を使って、ある程度の哲学と、娯楽を与える、のがいいな。

いまひとつ。
傷つく、という言葉がある、
胸の辺りがん〜〜てかんじがすること、
これをついぞ私は、悪であると考えていた。
しかし、これは悪なのか、
言葉をなくしてみたら、これって
ただ、
胸がドキドキして、呼吸が荒くなるというだけのこと。
これを嫌う理由は、その運動にあるのではなく、
その後に何がおこるか、というのを頭が予測するからだ
と思う。

あきらかに呼吸が荒くなった人間がそばにいると、
他の人間は、何かしら影響を受ける。
もしかしたら、自分を嫌いになるかもしれない。
だって、誰だって、自分が愉快なとき、邪魔されるのはいやだろうから。
それを自分と相手の関係性のために、悪だと考えるから、
胸の動きをストップさせる、呼吸は止まる、そして、
それこそが身体の苦しみになる。

そう、だから、苦しい状況をさけよう、という
思考回路になり、
幸せなんてものを追い求めたりする、
ただこの世のどこにも普遍的な幸せなんて転がっちゃいない。
関係性を大切にすることこそが、人間の最たる幸せなんだ!とか思ったりする。
でも、関係はたとえ、呼吸を止めていたとしても、もっと
外的な影響によってかわったりもするんだよね。

だから、そうだ、だから、安定した、永遠の幸せはない。
あるとすれば、それは、
呼吸を荒くすることを、自分に許すことだ。

それがなるべく可能な環境をつくること、
そっちの方向に行くこと。
せめて、一人になったときは、それを完全に許すこと。

呼吸を止める、という社会での訓練と、
呼吸を解放する、という演劇とかヨガとかの訓練により、
なんだか、こういう結論に至った。

つまり、その解放ってのが、お酒とか、タバコであるってのは、
世の常なのかもね。
演劇もそれにものすごくいいんだよねー、、
演劇によるけど。

ただ、むつかしいのは、人間って、社会的つながりも求めるものなんだよね、
社会に適応できないと、自分はだめなヤツだとひどく落ち込むものだ。
つまり、孤独な囚人は苦しいはずだってこと。
社会でつながりを求めるなら、それはただの解放ではやっていけない、
呼吸を止めないといけない場面だってあるかもしれなくて、
そして、呼吸を止めることで、自分の自己評価があがる、
その快感のループに人間ははまっていくときもある。
自己啓発本とか、そうだよなあ。
そのループに変にはまったら、体は固くなっていくから、気づくことがなければ、
そのままそのループに居続けることになる。
でも、気づいた時点でかえられるってのが、また
面白いところよね、
絶えずかわり続ける、バランスをとり続ける、人間。
まあ、バランスを逸してしまう、というのも美しいんだけど。

そんなときこそ、呼吸を許すことが大切ね。きっと。
人間は曲芸師だ!!恐ろしい、バランス感覚をそれぞれの個が備えている。
しかし、エゴなんてものもあるし、集団をみたときに、
上の方にいたいなあ、みたいな欲求。
そこから、人を見下すとかゆう行為も出てくる訳だし。
根本的には、死にたくない、という欲求。
王様だって死んできた訳だけど、
でも、下の方にいると理不尽に抹殺されるという恐怖がいつだってあるものね。そして、自分は自分の人生において、何事も成し遂げられず、
終わっていくんじゃないかっていう。
それは嫌だー!
ってのが自尊心だったり、
ま、いっか、
ってのが悟りだったり、
いろいろ。
ただ、上の方が幸せだとは限らない。
不幸や幸せは、平等にやってくるさ。不思議だけど、
だから、自分の位置について、無駄に悩む必要はない、
結局どこにいても、何かしら悩んでいる訳だし、
人生は一つのストーリーみたいなもの、
ただし、思い通りになるとは限らないってだけなんだ。

欲しいものが得られないときもある。
欲しくないものが手に入るときもある。
ただ、その時間を、どう過ごしますか?
てことなのかも。
もしかしたら、ユーモアを磨くときなのかもね。

2011年8月

 

ひとりごつ七

コラム

 

 

 


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