一人ごと ペンと岐路と火

ubusuna

人間が言葉を使う故に孤独になったり、美しい芸術をつくったり、
神をつくったりしたのは、
ここたった二千年のはなし、

人類が初めて火を発見したとき、に、
もしかしたら、千九百年のときと、百年の発見と理論構築の時代があって、
発見がなされたように、
千九百年の文学や芸術、そして生活があって、
人間が、言葉によってでは人と人が理解し合うことは
ない、という状態に行き詰まりつつ、
火を発見すべく、毎日をいきるいま。
火とは、既成観念から頭一つ、上にでるということ、
火を発見したように、
新たな人間理解の可能性を探るそんな
時代なんじゃないか。

人間同士は結局はわかり合えず孤独である、
という映画などで、さんざん描かれてきたこと、
さんざんくりかえしてきた、サイクルに、
まだ私たちはいる。
その、ロマンチックさに、酔うこともまた、
私たちの脳には、濃く刻み付けられている、と思う。

アダムとイブが幸せをすてて、
孤独の道を選んだときから、
いままで、アダムとイブは出てきていないと
感じる。もしかしたら、いたかもしれないけど。

日々ロマンチックな孤独と、他人への演技
と、安定に甘んじることもまた、できるが、
実は私たちの脳はゆっくりと、進化する方向に
向かっていくらしい。
いままでさんざん通った道ではなく、
その岐路のない岐路にたったとき、
薄紫のもやのむこうに道をみようとすること、
もしくは、一歩を、他の方向に踏み出すということ、
その、甘美な興奮に、
あらがいがたい魅力を感じるように、
できているみたいだ。

現すというのは、見えるようにするということだが、
現すことが、そのまま、孤独というロマンチシズムからの、
脱出への足がかりになる。
かえってくる反応が、そのまま新たなデータになり、
そして、火を見つける日がやってくる。

火を見つけたときが、
このまたとないグローバリゼーションを利用して、
シェイクスピアもプーシキンも、
芸術貧困のために、
というか、芸術がまだ、始まったばかりなために、
達成できなかったことを、
やろうとしてみる、時なのだ。
孤独なロマンチシズムの傀儡化、
ロマンチシズムにはいつでもひたれるけど、
そうじゃない、道と空間と感覚を手に入れていく、
ということ。

相手を理解することはできても、理解されないとか、
理解できないとか、
そんな自分の常識を覆すことができたら、
それは、そのまま作品にできると思う。

常識とは、ペンだ、ペンは使い終わったらすてるもの、
書くために使うもの、書くこととは、
現すこと、
現すのは、火をみつけるための足がかり、
だとしたら、
書きにくいペンよりかきやすいペンを自分に
与えることだ。
まず書きやすいペンを与えて、
できる限り澄んだ形で、現すことが必要なのだ。
ペンが、古く、使いにくく、ペンと格闘している間は、
内容にしゅうちゅうできない、か、
ペンが出やすいような書き方でしか書くことができず、
そこにはそのペンの特色が現れるだけである。

故に、どんな種類のペンが世界に主に存在しているかを、
解くことも人間の重要な仕事なのだが、、、

ペンをかえるんだ、そのために、
文房具屋に行って、
あるはずもない、もう一つのペンをそこに、見つけだし、
そしてそれをとって、
まだかいたこともないような書き心地を味わう、
それもまた、甘美な体験だ。

岐路、ペン。

もちろんそう遠くない未来に、行動するためには理解
してくれる他人が必要不可欠なのだ。
やはり、今ならどうどうと言えるかもしれない、
私を理解してくれ、と。
いや、きみを理解させてくれ、と。
してみたいんだ、って、怖いんだけど、

本当のことを現すことの、恐ろしさが蔓延する、
いま、というか、二千年?
唯一いいたいけど、二千年というのは適当に思った数字です!
もしかしたら、三千年かもね☆なんて、考えたりしたりして

本当のことを現すことの恐ろしさ、
ただし、
理解していいよ、という風に他人にいうことの方が、
理解しなくていいよ、というよりもよほど、
重要な行程なのだ、
少なくとも今の私にとっては。

そこには、言葉を使う限り誤解が生じ、
嫉妬、怒り、恐怖、とか、喜び、も、だが、
とにかく、いろいろおこってくる、
が、その雑音の美しさに聞き惚れて、
孤独なロマンチシズムに埋没していくのは、
あきた。

だからって、理解しなくていいよ、ってのもあきた。

だから、理解していいよ、と言った結果、
生まれるものに関して、
意識を研ぎすまして、雑音の中に、
火を見つけることを、
言葉という一億のノイズのなかの、
10個くらいは散らばっているだろう、
火につながるかけらを、
見つけ出すことの実験に、
自分の心を体を使う、そういうことを
しましょう、と思ったのだ。

well,,,傷つくために使うんじゃないのよね、
発見するために使うのだ、
つまり、研ぎすまされた意識ならば、
無用な傷をさけることも、
恐れているよりも容易い。

その、技術を信じないばかりに、
絶望するのが怖くて、
希望を持たないということに、
なることほど、ばからしいことはない。

人は、人と決してわかり合えることがない、
と絶望してきたように、感じ、その遺伝子故に、
人と人が理解し合えるという希望を持つことに、
疲れてもいる。

しかし、それは単に、技術の欠如であって、
致命的な絶望ではなかったと考える。

最高のテクニックを持った、サッカー選手は、
絶望しない。
技術の欠如から希望をあきらめた後に、やってくるのは、
退屈である。
それを、安定と名付け、退屈の中に安住することはできない。
なぜなら、結局は退屈しているからである。
名前を変えても、退屈という感覚は退屈のままである。

サッカー選手が行き詰まりを感じたら、
それを打破し、先に進む工夫をするだけである、
そのために、実験をし、ペンを買いにいき、ペンを見いだし、
手にとり、かき心地を味わい、
岐路を見いだし、もやのなかへの一歩を選ぶ、
そのようにして、スーパープレイを生む。

致命的な絶望、、、
技術の欠如を発見すること、または他人に発見されることを、
致命的絶望ととらえたなら、
絶望は容易く、希望はもてなくなる、
希望と絶望は同居しえない。
希望のあるところに、絶望はなく、
絶望の巣くうところに、希望はもちこめない、
退屈はその半ばにある。

なので、人は致命的に絶望はできないのだ、
絶望したあとには、
退屈がやってくる。
その後には希望にも目がむくのである。

新しいペンと薄紫のもやへの一歩の甘美な誘惑を
拒むことない。
悲しさを思ったところに悲しさはやってくる、
窮屈を感じたところに窮屈はやってくる、
甘美を感じたところに甘美はやってくる。

大事なのは、火をみつけることである。

2011年9月

ひとりごつ七

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