あるものとないもの
先日、東京フィルムセンター映画俳優専門学校へ講師として伺いました。
その時に、学生さんに現状の問題点を聞く中でこんなことがありました。
「私、特技が何もないのです。
オーディションで特技はありますか?と聞かれて、困りました」
ごく普通の悩みと言ってしまえば、それまでですが、
映画のプロデューサーである古澤さんが、僕に話してくれた。
僕たちは、無い物に付加価値を付けて資金を集めてくることが仕事なんだ。
俳優も、言ってみれば、そういう仕事でしょう?
という事を聞いて、ああ、素晴らしいことを聞いたなと思いました。
そして、この特技の問題の裏に重要な問題が隠されていることにふと気づきました。
それが、あるものとないものの問題です。
この場合、あるものは、特技ということですが、
あるものは、商品として売りやすいものです。
ですから、真っ先に特技は?と聞いてくるわけです。
それは、タレントの商品価値をわかりやすく知ろうとしているわけです。
しかし、ここに落とし穴があるわけです。
つまり、あるものが、ないものを隠すという可能性についてです。
例えば、ピアノが弾けたとします。
「ああ、ピアノが弾けるのですね、素晴らしいですね。」
とピアノが弾けるというレッテルを貼ります。それで終わり、、、?
つまり、ピアノが弾ける人が必要になるまで思い出さないかもしれない?
しかも、ピアノが弾けるという枠の中では、均一化されて個性が見えない?
特技は、その人の個性のようですが、
あるレッテルを貼られると、商品棚に並んだ工業商品のようになりかねない。
いや、そういうことじゃなくて、
ほんとうは問題はもって深いのです、実はこの問題の本質は、
人が、有るものに頼っているということ、
あるいは、有るものに頼って依存しようとしていることです。
それは、言い方を変えれば、
無いものが有るものに遮られて、本質を見失うということです。
人というものは、容姿でも体型でも、特技でも財産でも地位でもないもの。
それは、可視化できない、ある集中体なわけで、
ある何かに集中したとき、その人の姿が現れる。その姿を人は見る。
個性とは、その人の集中したときのその姿のことであり、
商品棚に並べられるようなものではない。
存在感というものは、
有る物の上に立っている姿から出されるものではなく。
無いもののうえに全重心をかけて立つことが出来たとき、
初めて生まれるてくるものなのかもしれない。
有るものの上に立った軸足は動かせなくなるが、
無い物の上に重心をおけば、軸足から斬り込むことが出来る。
これは、武道の心得で難解なところです。
もともと、日本文化は、隠すこと、隠れていることを好んだ、
満月よりも三日月、または雲にかくれていること。
竜安寺の石庭は全ての石をみることが出来ないように配置されている。
富士山も全部が見渡せることよりも、松原に隠されている姿を佳しとしてきた。
これらの価値観のなかに暗示されていることは、
「有るものが無いものの本質を隠しているのなら
何かに隠された姿の向こうに、本質を見ることができる」
という智恵なのだとおもいます。
私たちは、身体という見えるものに自分が隠されているのだから、
つまり自分自身が、自分を見えなくしてるわけです。
古人の智恵を借りるならば、自分を隠さないと自分が見えない。
だから、いっそ、その見えるものから軸足をはずし、見えないもの。
すなわち、無いものうえに軸足を置き、堂々と立って見せること。
その時、はじめて自分の姿が現れ、個性が光り出す。
つまり何か無いものに一生懸命、人生をかけて集中して、自分の姿を現すこと。
こうした姿勢が、存在感であり、個性になるのでは?と漠然を思ったわけです。
俳優とか、芸術全般に当てはまることだと思うのですが、
無いものの上に付加価値をつけていくことが、仕事であり、
また、芸術と呼んでもらえるようになるための試金石になるのだと思います。
もちろん、芸術にとどまらず、生きていく姿とは、そういう事なのかな?
とちょっと、いや無茶苦茶、偉そうな事を書いてしまった。
こんな終わり方に、かなり後悔しながらも、しょうがないから公開します。爆
※注意
決して、特技を否定しているわけでは、ありません。
単にものの例えとして、出しただけです。
特技があれば、いつでも力になるし、人生を支えて助けてくれるものです。
大いに、特技を磨きましょう。笑
追記
質問が寄せられました。
「なぜ私たちが意図的に自分を隠す必要があるのかが分からないです」
これは、簡単に説明出来ることではありませんが
強引に短くまとめました。
「これは、まず精神論でも哲学でもなく、テクニックとしてなのですが、視覚を認識に使えば、レッテル貼りに終始する。貼られたレッテルは、その人を拘束する。そして、ある物としての私は、容姿や体型、位置情報であったりしますが、そのほとんどは、死んだ時にも腐るまで、この世に残っています。つまり、実のところ生命としての身体を表していないのかも知れない。ある物としての私は、人としての概念だけなの存在を示しているだけなのかも知れないという事です。だから、そう言った既成概念としての自分を隠した時、躍動する何か得たいの知れないものに出会える可能性があるという事です。」